第84話 ログに残らない行動
――世界が、反応しない。
それは異常というより、
空白だった。
カイがそれに気づいたのは、
崩れかけた建物の前で足を止めた瞬間だった。
瓦礫が積み上がり、
柱が歪み、
今にも倒れそうな外壁が、かろうじて形を保っている。
その下から、かすかな声が聞こえた。
「……たす、けて……」
子どもだ。
カイは息を呑み、瓦礫の隙間を覗き込む。
幼い子どもが、
崩れた梁の下に挟まれている。
動けない。
泣き声も、もう力がない。
(……まずいな)
普通なら、ここで何かが起きる。
警告。
イベント通知。
周囲の人間の反応。
――救出イベント。
これまでの経験上、
この状況は“そういう場面”だった。
だが。
何も起きない。
警告も、
ログの起動音も、
世界のざわめきもない。
街は、いつも通りに動いている。
(……反応が、ない?)
カイは観測ログを確認する。
――周辺環境:安定
――異常検知:なし
――イベント発生:未定義
未定義。
胸の奥に、嫌な感覚が広がる。
(……この子は)
(イベントに含まれてない)
本来なら、
「助ける」か
「助けられない」か。
どちらにせよ、
世界が選択肢を用意する。
だが今回は、
選択肢そのものが提示されていない。
カイは、ほんの一瞬、迷った。
ログに従うべきか。
待つべきか。
誰かを呼ぶべきか。
――でも。
子どもの指先が、かすかに動いた。
その小さな動きが、
すべてを決めた。
「……大丈夫だ」
誰に聞かせるでもなく、
カイはそう言って、瓦礫に手をかけた。
独断だった。
許可もない。
イベントもない。
正規ルート外の行動。
重い梁を持ち上げる。
腕に痛みが走る。
瓦礫が軋む。
その瞬間――
視界が、白く弾けた。
音が消える。
風の音も、
街のざわめきも、
自分の呼吸音さえ。
体が、異様に軽い。
重力が、
一瞬だけ存在しなくなったみたいに。
時間が止まったのか。
それとも、
自分が世界から切り離されたのか。
判断がつかない。
ただ――
何も感じない。
次の瞬間。
すべてが、戻った。
音が流れ込む。
瓦礫の軋み。
遠くの声。
子どもの、浅い呼吸。
梁は持ち上がり、
子どもは、自由になっていた。
「……っ」
子どもは、驚いた顔でカイを見る。
生きている。
確かに、助けた。
カイは、息を荒くしながら、
観測ログを開いた。
――救出完了
――対象:子ども
――結果:成功
……そう表示されるはずだった。
だが。
ログは、空白だった。
文字がない。
数値がない。
履歴が、存在しない。
しばらくして、
無機質な表示が浮かび上がる。
《該当データ:存在しません》
カイは、目を見開いた。
「……は?」
何度、確認しても同じだ。
時間も。
位置も。
行動履歴も。
何も、記録されていない。
まるで、
今の出来事そのものが、
世界に存在していなかったかのように。
子どもは立ち上がり、
礼も言わず、
そのまま走り去っていった。
周囲の住民も、誰一人として騒がない。
崩れかけた建物も、
「少し傾いただけ」のままだ。
(……消えた?)
(いや……)
(最初から、無かったことにされた)
カイの背筋に、冷たいものが走る。
これまで、
イベントは消費されていた。
履歴が残らなかった。
だが今回は違う。
ログそのものが存在しない。
つまり――
世界は、
この行動を
観測していない。
正確に言えば、
観測できなかった。
(……正規ルート外)
世界が用意した選択肢。
世界が許可した介入。
それらを外れた瞬間、
観測システムは――
沈黙する。
カイは、ゆっくりと拳を握った。
恐怖と、
理解が、
同時に湧き上がる。
(……見つけた)
(世界が“反応しない瞬間”)
ログに残らない。
履歴に刻まれない。
だから、修正も、復元もされない。
それは、
世界の外側ではない。
**世界の“死角”**だ。
カイは、空を見上げた。
雲は流れている。
街は動いている。
イベントも、これから起きるだろう。
だが――
今、自分がやったことだけが、
どこにも存在しない。
「……なら」
カイは、静かに呟いた。
「ここが、触れる場所だ」
世界に拒否されない。
けれど、
世界に記録されない行動。
それは危険で、
不確かで、
誰にも保証されない。
でも――
唯一、世界を変えられる行動だった。
カイは、崩れかけた建物を背に、
歩き出す。
ログに残らない足跡を、
自分の中だけに刻みながら。




