第81話 終わらない街
――世界が、進んでいない。
その違和感は、最初は「気のせい」みたいに薄かった。
けれど歩けば歩くほど、薄皮が剥がれるように、確信へと変わっていく。
カイはルーメンの街を歩いていた。
石畳の継ぎ目。
壁のひび割れ。
角の酒場の看板が欠けている位置。
昨日、確かに見た。
――いや、“昨日と同じ”ではない。
昨日そのままだ。
通りに吹く風まで、同じ温度で頬を撫でた気がする。
鼻を刺す油の匂い、焼けたパンの香り。
遠くで鳴る鐘のタイミング。
路地から飛び出した子どもが転び、泣き声を上げる間合いまで。
(……同じ、だ)
聖遺構で、あの謎の少女と出会ってから。
世界の「綻び」は、以前よりもはっきりと見えるようになった。
見えない壁が薄くなり、
世界の裏側の気配が、皮膚に直接触れてくる。
そして今、目の前の街は、
まるで繰り返し再生される映像のように、同じ景色を吐き出していた。
カイは足を止めた。
角を曲がると、木箱が積まれているはずの場所。
昨日と同じ数。
同じ向き。
同じ傷。
木箱の角が欠けている位置まで、一致している。
不意に、背後から声が飛んだ。
「兄ちゃん、道を塞ぐなよ」
肩がぶつかる。
振り返ると、背の低い男が不機嫌そうに舌打ちした。
よくある街の住民。
よくある反応。
――それも、昨日見た気がする。
「悪い」
謝って道を譲る。
男は何事もなかったように歩き去った。
カイは小さく息を吐き、懐から折りたたみ式の地図を取り出す。
ルーメンの街に出回る、安物の「自動更新」地図。
紙のくせに、気まぐれに線を描き替える――
この世界では、当たり前の奇妙さだ。
地図の端に、小さな文字が浮かび上がる。
《最新》
カイは眉を寄せた。
(最新? ……何が?)
昨夜、宿で地図を開いた時も《最新》だった。
今も《最新》だ。
けれど、表示されている道筋は昨日と同じ。
誤差すらない。
試しに、昨日通ったルートを意図的に外れた。
あえて迷うように、曲がり角を選ぶ。
路地へ、裏通りへ。
――それでも。
曲がった先に現れるのは、知っている景色だった。
壁の落書き。
倒れた樽。
二階の窓から垂れている洗濯物の柄。
濡れた布の色合いまで一致している。
(俺は……夢でも見てるのか?)
だが、夢にしては感触が生々しい。
石畳の凹凸が靴裏に伝わる。
空気が肺を満たす。
胸の奥で、聖遺構の残響が、微かに鳴っていた。
カイは道端の屋台の前で立ち止まる。
串焼きの脂が煙を上げ、店主が声を張り上げている。
「焼きたてだよ! 腹が減ったらこれだ!」
声の抑揚。
隣の客が「二本くれ」と言うタイミング。
小銭が皿に落ちる音。
昨日、同じ場面があった。
カイは確かに、ここで立ち止まり――
串焼きの匂いに気を取られた。
そのとき、隣のテーブルに座る老人の声が耳に入った。
「……だからさ、また上が値上げだとよ」
「上の連中は、こっちの苦しみなんて知らんのさ」
カイの背筋が、わずかに強張る。
“上”。
下層の人間は、上層の存在を知らない――はずだ。
けれど老人の口ぶりは、上層そのものではなく、
ただの「権力者」や「上の地区」を指しているようにも聞こえる。
ここでも世界は、曖昧に隠す。
真実に触れそうになると、言葉は別の意味へ滑っていく。
(……これも、仕組みか?)
カイは老人に近づき、さりげなく問いかけた。
「上って……何のことだ?」
老人はちらりとカイを見て、眉をひそめる。
「何って、上は上だよ。城壁の内側の連中さ。
こっちの税を吸い上げて、贅沢してる」
あっさりした答えだった。
上層の“上”ではなく、街の構造としての上。
その普通さが、逆に怖い。
老人は肩をすくめて続ける。
「ま、どうせ今日も同じだ。明日も同じさ。
働いて、飲んで、寝て……また働く」
カイは、その言い回しに心臓を掴まれたような感覚を覚えた。
今日も同じ。
明日も同じ。
疲れた人間の嘆き。
けれど、この街の“同じ”は、比喩ではない。
カイは屋台を離れ、路地へ入った。
狭い通路。湿った石壁。
奥に、小さな空き地があるはずだ。
――昨日も、そこに野良犬が寝そべっていた。
空き地に入る。
野良犬がいた。
同じ毛並み。
同じ位置。
そして同じように、こちらを見上げて鼻を鳴らす。
(……笑えないな)
カイは膝をつき、犬に手を伸ばした。
犬は警戒しながら、昨日と同じ距離、同じ角度で顔を背ける。
カイは犬の前に、小石を置いた。
昨日とは違う要素。
世界に残す、意図的な“変化”。
その瞬間――
視界の端が、わずかに揺れた。
空気ではない。
視界そのものが、薄い膜を一枚挟んだように波打つ。
胸の奥で、聖遺構の残響が、確かに強まった。
(……反応した?)
犬が、ふっと目を瞬く。
次の瞬間。
犬の前に置いたはずの小石が――消えていた。
カイは息を呑む。
地面を探す。草の陰、石の隙間。
どこにもない。
まるで最初から、置いていなかったかのように。
背中に冷たい汗が流れた。
(……“同じ”に戻された)
カイは立ち上がり、周囲を見渡す。
路地の奥。
壁と壁の間に、細い隙間がある。
昨日は、気づかなかった。
いや、昨日もあったのかもしれない。
――ただ、気づかされなかっただけで。
隙間は、人一人がやっと通れるほどの裂け目。
奥は暗く、光が飲み込まれている。
カイは地図を開いた。
そこには、その道は描かれていない。
《最新》のはずなのに。
喉が鳴った。
(……これが、“更新されてない”ってことか)
街が同じ配置を繰り返すのは、単なる停滞じゃない。
世界が、“維持”されている。
誰かが。
何かが。
「同じ」に固定することで、変化を拒んでいる。
そして地図は、最新を名乗りながら、
見せるべきものを隠している。
カイは暗い隙間を見つめた。
胸の奥で、聖遺構が微かに震え、
引力のように背中を押す。
(……進まない街の、進む場所)
振り返ると、路地の入口を住民たちが通り過ぎていく。
誰も、この隙間を見ていない。
見えていないのか。
見ないように、されているのか。
カイは息を整えた。
「……この道、昨日も通った気がする」
今度は、声に出して言う。
誰かに聞かせるためじゃない。
自分に刻むために。
そして一歩、暗い隙間へ踏み込んだ。
その瞬間――
背後の街の音が、ふっと遠ざかる。
屋台の声も、鐘の音も、足音も。
まるで、世界の音量を絞られたみたいに。
代わりに聞こえてきたのは、
どこかで、ページをめくるような音。
カイは立ち止まった。
暗闇の奥で、
誰かが笑った――そんな気がした。
そして地図の端に浮かぶ《最新》の文字が、
一瞬だけ、別の文字に変わる。
《復元》
背筋が凍りつく。
(……この街は、更新されてないんじゃない)
(“復元”されてるんだ)
同じ街が繰り返される理由。
誰も違和感を口にしない理由。
小石が消えた理由。
その答えが、
暗闇の奥で、形になろうとしていた。
カイは拳を握る。
聖遺構の残響が、指先にまで満ちる。
終わらない街の、外側へ。
世界が止まっているなら、
止めているものに触れにいく。
カイは、闇の奥へ歩き出した。
――その一歩が、
下層の「常識」を壊す入口になるとも知らずに。




