第78話 光の残滓に触れる手
白は、完全には消えていなかった。
観測の空白帯――
そこから落ちきる直前、世界はまだ、現実と未定義の境界に留まっている。
上下の感覚は戻りつつある。
だが、重力はまだ“仮の値”だ。
カイは、ゆっくりと身を起こした。
足元は、存在しているようで、していない。
床らしきものは見えるが、触感は遅れて追いついてくる。
(……戻りきってない)
胸の奥で、光片は静かに沈黙していた。
警告も、誘導もない。
まるで――
ここから先は、光片の管轄ではないと告げるように。
そのとき、視界の端で何かが瞬いた。
白の底。
空白帯の“底”としか呼びようのない場所。
そこに、細い光が漂っている。
線ではない。
粒でもない。
コードの断片。
意味を持っていたはずの情報が、
定義を失い、光として残ったもの。
(……光の、残滓……)
本来なら、すでに消えているはずだ。
観測されない空間に、情報は留まれない。
だが、それはそこにあった。
――誰かが、消さなかったかのように。
カイは、一歩踏み出す。
一歩ごとに、空間が応答する。
踏みしめられて初めて、床は床として成立する。
光のコード片は、ゆっくりと回転していた。
触れれば、消える。
触れなければ、このまま失われる。
(……それでも……)
理由はなかった。
導かれたわけでもない。
命令されたわけでもない。
ただ――
触れなければならない気がした。
カイは、手を伸ばす。
指先が光に触れた、その瞬間――
世界が、止まった。
時間ではない。
観測が、止まった。
光のコード片が、ほどける。
情報が、再構成される。
空白帯の白が、一点に収束し――
そこに、彼女が立っていた。
揺らぎのない輪郭。
断片ではない、完全な“具現”。
だが、質量は感じられない。
存在はここにあるのに、世界に登録されていない。
少女の姿。
年齢は測れない。
近いようで、遠い。
簡素で、どこか構造的な衣装。
まるで、世界の法則をそのまま編み上げた線。
顔が、こちらを向いていた。
目が合う。
言葉はない。
微笑みも、ない。
だが――
確かに、見つめている。
評価でも、判断でもない。
観測とも、解析とも違う。
ただ、
「在るもの」として認識する視線。
カイの喉が、震えた。
「……」
名を呼ぼうとして、やめる。
ここで名前を与えてはいけない。
そうすれば、彼女は“ここに固定されてしまう”。
少女は瞬きもしない。
だが、その視線には、わずかな確かさが宿っていた。
――覚えている。
そう言われた気がした。
だが、実際には何も語られていない。
光片が、微かに反応する。
だが、干渉はしない。
触れてはいけない領域だと、理解しているかのように。
少女の輪郭が、揺らぎ始める。
具現は、長く続かない。
ここは観測の空白帯。
存在は、すぐに未定義へ戻る。
消える前、
彼女はほんのわずかに首を傾けた。
問いではない。
別れでもない。
確認だ。
――見た。
――届いた。
――それで、十分。
次の瞬間、彼女の姿は光に還った。
残ったのは、
ほどけきったコード片と、
空白帯へ戻りつつある白。
観測が再起動する。
重力が、確定する。
カイは、膝をついた。
胸の奥が、静かに痛む。
(……今のは……)
幻ではない。
錯覚でもない。
だが、出会いと呼ぶには、あまりに静かすぎた。
それでも、確かなことがある。
彼女は、ここにいた。
そして――自分を、見た。
それだけで、世界はもう元には戻らない。
光のコード片は、完全に消えた。
だが、
その“欠落”だけが、はっきりと残っている。
ミリアも、レオンも、
Jですら観測していない瞬間。
主人公だけが、触れてしまった痕跡。
光片が、ようやく役割を取り戻す。
静かに脈打つ。
帰還の準備だ。
カイは立ち上がる。
振り返らない。
振り返っても、
もう、そこには何もないからだ。
だが――
視線だけは、確かに残っている。
微笑まなかった少女。
言葉を交わさなかった。
それでも、
「ここで会った」という事実だけが、深く刻まれた。
今はただ、
光の残滓に触れた手の感覚だけが、
確かな現実として残っていた。
それで、十分だった。
今回は説明しすぎない回でした。
もし「何かを見た気がする」と感じていただけたら、
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次回も、よろしくお願いします。




