第77話 観測の空白帯
落ちている――
そう思った瞬間、その感覚は消えた。
上も下もない。
前も後ろもない。
身体はどこにも引かれず、どこにも触れていない。
白。
視界を満たすのは、ただ一色。
光ではなく、闇でもない。
――何も定義されていない状態、そのもの。
(……ここは……)
自分の身体を見ようとして、できないことに気づく。
手足の感覚はある。
だが、それが“どこにあるか”を示す座標が存在しない。
空間が、彼を認識していない。
――いや。
観測していない。
胸の奥で、光片が静かに脈打っている。
だが、警告も誘導もない。
ここでは、光片でさえ“役割を持てない”らしい。
(……観測の、外……?)
理解が浮かんだ、その瞬間――
白の奥で、何かが瞬いた。
一瞬だけ。
影のような輪郭。
人の形に似ていて、そうでない。
髪のような流れ。
肩のような線。
だが、顔は見えない。
「……?」
声を出したつもりだった。
だが音は生まれない。
ここでは、音すら未定義だ。
再び、フラッシュ。
今度は少し近い。
白の中に、淡い色が混じる。
温度はないはずなのに、胸の奥が微かに熱を帯びた。
次の瞬間――
声が、重なった。
――……きて……
かすれた、柔らかな声。
呼ぶようで、待つようで、
それでも確かに“こちらを向いている”。
だが、同時に――
――……まだ、早い……
低く、抑えられた声。
同じ響きなのに、明確に違う距離。
拒絶ではない。
制止だ。
(……二人……?)
問いかける前に、視界が大きく揺らいだ。
白い空間に、亀裂のようなものが走る。
壊れたのではない。
重なった。
別の“層”が、一瞬だけ上書きされた。
そこに見えたのは、巨大な構造。
都市のようで、遺構のようで、
どこか未完成。
幾何学的に折り重なる空間。
一定でない重力と時間。
そして、その中心に――
同じシルエットが立っていた。
今度は、はっきりと“人”だと分かる。
だが、やはり顔は見えない。
輪郭が、二重にぶれている。
一つは近い。
もう一つは、遠い。
同じ存在なのに、位相が違う。
――……きて……
近い方の声。
そこには感情がある。
懐かしさ。
焦り。
そして、微かな寂しさ。
――……まだ、早い……
遠い方の声。
冷静で、澄んでいて、
だが、どこか痛みを含んでいる。
まるで、
自分自身に言い聞かせているような声。
「……誰だ……」
ようやく、言葉が“意味”として成立した。
返答はない。
代わりに、白い空間がゆっくり波打つ。
意識が、引き伸ばされる。
過去の記憶。
まだ起きていない出来事。
選ばれなかった可能性。
それらが、同列に並べられる。
(……ここでは……)
時間は流れていない。
いや、流れる必要がない。
すべてが、同時に参照可能。
観測の空白帯。
誰にも見られず、
誰にも確定されていない領域。
だからこそ――
上層に近い。
アーク層。
言葉ではなく、感覚として浮かぶ。
世界の基盤。
物語の外縁。
観測が始まる前の原型。
白の向こうで、再びシルエットが瞬いた。
今度は、二つに分かれて見える。
同じ形。
同じ輪郭。
だが、片方は“今”を向き、
もう片方は“未来”を背負っている。
――……きて……
今度は、はっきりとした声。
誘いではない。
要求でもない。
約束だ。
――……まだ、早い……
もう一方の声が、静かに重なる。
拒絶ではない。
猶予。
(……ティア……?)
名を思い浮かべた瞬間、
白い空間が微かに応えた。
だが、同時に別の響きが重なる。
(……ティーア……)
二つの名。
二つの位相。
一つの存在。
感情を持つもの。
役割を背負うもの。
カイは、理解しかけて――
やめた。
ここで理解してはいけない。
ここで確定させてはいけない。
それが、“まだ早い”理由だと、
直感が告げていた。
白が、ゆっくり遠ざかる。
シルエットが、霧の向こうへ溶けていく。
最後に、二つの声が重なった。
――……また……
――……必ず……
意味は、まだ取れない。
だが、確かなことがある。
カイは今、
観測されていない場所を見てしまった。
上層。
アーク層。
二重の声を持つ存在。
光片が、再び静かに脈打つ。
役割を、取り戻し始めている。
白が薄れ、
落下感覚が戻る。
世界が再び“観測可能”になる前、
カイは最後に思った。
(……あれは、敵じゃない)
だが、味方とも言い切れない。
まだ、物語の外側にいる存在。
観測の空白帯は、閉じた。
だが、そこにあった気配だけは、
確かに、主人公の中に残っていた。
それは未来で――
必ず、再び交差する。




