第70話 奥から混線する声
遺構の奥へ進むにつれ、空気が薄くなっていくような感覚があった。
息が苦しいわけではない。
けれど、吸い込んだ空気が胸の奥まで届かず、途中でほどけて消える。
まるで、呼吸そのものが途中で分解されているようだった。
足音は確かに石の床を打っている。
だが、その音が耳に届くまでに、わずかな遅れがある。
ほんの一拍。
それが、ひどく気持ち悪い。
「……ここ、ほんとに遺構の中だよね」
ミリアが小声で言う。
「ええ」
レオンは周囲を見回しながら答えた。
「ですが、通常の建造物ではありません。
空間そのものが……折り畳まれています」
カイは返事をしなかった。
できなかった。
胸の奥で、光片とは別の鼓動が続いている。
第五話の頃から、確かにあった感覚。
だが今は、その鼓動の中に異物が混じり始めていた。
――ざら。
喉の奥を、小石が転がるような感触。
音ではない。
耳で聞こえるものでもない。
それでも、確かに「聞こえた」。
(……なんだ、これ)
歩きながら、カイは意識を内側へ向ける。
すると――
「……きて……」
言葉になりかけたものが、途中で崩れた。
声の形を取る前に、意味だけが浮かび上がる。
頭の中ではない。
胸の奥から、直接。
カイは立ち止まった。
「カイ?」
ミリアが振り返る。
「……今、聞こえた」
喉がひどく乾いている。
「何が?」
ミリアは眉をひそめる。
「声……みたいなもの」
レオンが静かに近づく。
「どのような声ですか?」
「はっきりしない」
カイは胸を押さえた。
「断片だけだ。
『……きて……』って」
ミリアは周囲を見回す。
「誰かいるの? 敵?」
「違う」
即座に首を振る。
「外からじゃない……俺の中から聞こえる」
口にした瞬間、自分でも寒気がした。
だが、間違いない。
レオンの表情が、わずかに引き締まる。
「私には……何も聞こえません」
その言葉で、背筋が冷えた。
まただ。
光の少女と同じ。
自分にしか届かない。
歩き出そうとした瞬間、胸の奥が再びざらついた。
「……まだ……」
今度は短い。
それでも、意味ははっきりしていた。
「……まだ?」
カイは無意識に口に出す。
「カイ、今なに?」
ミリアの声が焦る。
「『……まだ……』って」
息を飲む。
「聞こえたんじゃない……届いた」
声は混線した古い無線のように、途切れ途切れだった。
だが、Jのノイズとはまったく違う。
Jのノイズは、外から割り込んでくる雑音。
今の声は――
遠くから、必死に伸びてくる糸だった。
ミリアが記録板を取り出す。
「……待って。今の状態、確認する」
淡い光がカイの周囲をなぞる。
ミリアは表示を見て、眉をひそめた。
「……揺れが増えてる」
慎重な声。
「でも、発生源が特定できない。
外部じゃないのは確か」
レオンが静かに頷く。
「“外”ではなく、“この層の外側”からでしょう」
カイは顔を上げた。
「層の……外?」
「はい」
レオンは迷いなく言った。
「ここは、上層の影響が混じる場所。
あなたが拾っているのは、そこから漏れた呼びかけです」
喉が鳴る。
「……俺だけが?」
「ええ」
断言だった。
「あなたにしか受信できない種類の声です。
私には届きません」
その言葉は、逃げ場を残さなかった。
誇らしさなどない。
ただ、選別されたという事実だけが重く残る。
そのとき、光片が強く脈打った。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
赤い光が、通路の奥へ鋭く伸びる。
「……奥だ」
カイが呟く。
ミリアも光片を見る。
「また……あっち」
レオンは低く言った。
「あなたの中の声と、光片の反応が一致しています。
この遺構は……さらに深い段へ、あなたを導いている」
カイは一歩踏み出した。
胸の奥がざらつく。
「……きて……」
「……まだ……」
声は弱い。
だが、確実に近づいている。
距離が縮まっているのではない。
隔てていた“壁”が、薄くなっている。
(……向こう側が、近い)
光片を握りしめ、息を整える。
「行くしかない」
「……うん」
ミリアは頷いた。
恐怖はあるが、目は逸らしていない。
レオンも一歩前へ出る。
「進みましょう。
この声が何を意味するのか。
そして、なぜあなたがそれを受け取れるのか」
三人は再び歩き出す。
遺構の奥へ。
空白域の中心、そのさらに奥へ。
光片は激しく脈打ち続ける。
カイの胸の奥も、それに呼応する。
そして――
今度は、ほんの少しだけ長い断片が届いた。
「……きて……ここ……」
言葉になりかけて、また途切れる。
それでも確信できる。
誰かがいる。
ここではない。
もっと奥。
この層の、さらに外側。
怖い。
それでも、止まれない。
――呼び声が、選んでいる。
自分を。
その確信だけが、胸の奥で静かに燃え続けていた。




