第64話 ノイズと古い記憶
草木の時間が乱れ、枯れと再生をくり返す“不自然な揺れ”の中を、三人は慎重に進んでいった。
一歩踏み出すたび、周囲の空気がざらつくように揺らぐ。
遠くで木の葉が擦れ合う音がしたと思えば、次の瞬間には、その音さえ巻き戻されたかのように消えていく。
まるで世界が──息をするのを忘れている。
「この先に……何があるんだろうな」
カイは光片の脈に合わせて歩調を整えた。
いまや光片は、何かに“呼ばれている”ようにしか見えない。
「空白域の中心に近づいているのは確かです」
レオンが静かに言う。
「ここまでくると……空気が違う」
その声には、普段にはない硬さが混じっていた。
「ねえ……Jに、もう一度連絡できないかな」
ミリアがぽつりと言う。
レオンが返事をするより先に、カイは光片を握り直し、以前使った“接続装置”を起動した。
レオンが渡してくれた、遠くの人物へ声を届けるための道具。
この世界の者から見れば魔法具だが、レオンにとっては“遠くを見る器具”らしい。
光片の脈と装置の淡い光が重なり、ふっと揺らめいた。
「……J。聞こえるか。返事をくれ」
返るのは、静寂だけ。
カイがもう一度呼びかけようと息を吸った──その瞬間。
装置が、裂けるように鳴った。
ザザッ……ガ、……ッ
「ひっ……!」
ミリアが肩を跳ねさせる。
「J!?」
カイが身を乗り出す。
「Jなのか!?」
だが返ってくるのは、言葉の形を持たない断片だけだった。
……ァ……オ……ザ……ッ……
壊れた笛のように、音がねじれ、途切れ、引き裂かれていく。
ノイズが、波のように押し寄せてくる。
ザザザ……ガ……ザ……ガガ……!
「だめ……これ、声になってない……!」
ミリアの手が震える。
その時だった。
「……っ!」
レオンが突然、額を押さえ込むように身を屈めた。
「レオン!?」
カイが慌てて支える。
「大丈夫!?」
ミリアも駆け寄る。
レオンの呼吸は乱れ、歯を食いしばっている。
どんな異常にも動じない彼が、痛みに耐えるような顔をする。
それだけで、カイの背筋が冷えた。
「レオン……何が、見えてる?」
カイが問う。
レオンはゆっくり顔を上げた。
その瞳には、恐れとも懐かしさともつかない影が揺れている。
「……このノイズ……」
かすれた声が漏れる。
「昔……“あいつ”の観測に巻き込まれた時と……同じだ……」
「あいつ……?」
ミリアが息をのむ。
レオンは小さく頷き、痛みを飲み込むように言った。
「……Jの波です。間違いない」
空気が張りつめた。
カイの心臓が強く跳ねる。
「レオン……お前、Jと何かあったのか」
レオンは一瞬、言葉を探すように沈黙した。
そして、薄く息を吐く。
「……一度だけ。深く関わりました」
それだけで十分だった。
“深く”という言い方が、すでに危険の匂いを帯びている。
「Jは……ただの研究者ではありません」
レオンは闇の奥を見たまま続けた。
「彼は“観る”ことに特化した存在です。
そして、その力は強すぎる。時に──周囲を巻き込む」
「巻き込むって……今みたいに?」
カイが問う。
「ええ」
レオンは頷く。
「彼が“観よう”とした瞬間……観る先だけでなく、こちら側の時間や意識まで乱れることがある」
ミリアがぞっと肩を震わせた。
「レオン……その時、あなたも……?」
「私は一度、Jの観測に巻き込まれ……時間の流れを見失いかけました」
レオンの声は静かだが、奥が震えていた。
「現実と記憶の境界が溶けて、すべてが混ざり合う。
……あの感覚だけは、二度と味わいたくない」
彼は額の汗を拭い、ゆっくり立ち上がる。
いつもの紳士的な落ち着きを取り戻そうとしている。
だが、瞳の奥の揺れは消えなかった。
「その後……私と彼は、“この世界の深い層”へ落とされました」
言葉が重い。
「そこから戻るまでに、どれほどの時間が経ったのか……正確には分かりません。
それ以来──私は、彼と距離を置いた」
ミリアが小さく息を吸う。
「じゃあ……Jは、今……?」
レオンは頷いた。
「確信しました」
低い声。
「この乱れ、このノイズ……Jの波です。
彼は今、空白域の中心で……“観ている”】【
カイは拳を握りしめる。
「Jが……ここにいるのか?」
「正確には、“ここに近い”」
レオンの言い方には、嫌な含みがある。
「ただし……危険な形で」
レオンは言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「彼は自分の意志で近づいたのではないでしょう。
“呼ばれた”。あるいは……追い詰められた」
ミリアが震える声で問う。
「Jは……無事なの?」
「分かりません」
レオンは正直に答えた。
「ですが、波がここまで漏れているということは……
彼は“こちら側の声を、まともに出せる状態ではない”。
意識がどこかに引きずられている可能性が高い」
それは、単なる不在じゃない。
存在そのものが、揺らいでいる。
カイは光片を握りしめた。
脈が、また細かく速くなる。
「……行こう」
カイの声は低い。
「Jが何を見て、どこへ連れていかれたのか……確かめる」
レオンは静かに頷いた。
「ええ。これはあなた方だけの問題ではありません」
そして、ほんの僅かに目を細める。
「私自身……彼と向き合う時が来たのでしょう」
ミリアも強く頷く。
「じゃあ、進もう。空白域の中心へ」
三人は再び歩き始めた。
光片は、まるで焦る心臓のように脈を刻み続ける。
ノイズはまだ耳の奥に残っていた。
そして、そのざらつきの奥に──
かすかに、声の欠片が混じった気がした。
……見る……な……
……来る……な……
警告か。
救いを求める声か。
まだ分からない。
だが、三人は進むしかなかった。
空白域の深部へ。
Jとレオンの“過去”が眠る場所へ。
そして、世界の縦の層が交わる“断層”へ──。




