第63話 反転する時間
空白域へ向かう山道は、歩を進めるほどに静けさが深まっていった。
風は確かに吹いている。
だが、森全体がどこか息をひそめているようで、虫の声ひとつ聞こえない。
「……ねえ。やっぱり変だよ」
ミリアが声を落とす。
「ええ」
レオンは穏やかに答えつつ、闇へ視線を巡らせていた。
「普通の夜なら、ここまで音が消えることはありません」
その落ち着いた声が、かえって異常さを際立たせる。
しばらく進むと、道がわずかに開けた場所に出た。
レオンが静かに手を上げる。
「ここで一度、止まりましょう。
……何かが、起きています」
三人が足を止めた、その瞬間だった。
「……あれ?」
カイが息をのむ。
前方の草むらが、月明かりの下で不自然に揺れている。
風ではない。
次の瞬間──
草が一斉にしおれた。
枯れた、と感じた直後。
若葉の色が戻り、瑞々しく揺れる。
それが、何度も繰り返された。
「……時間が……」
ミリアが後ずさる。
「巻き戻ってる……?」
影に侵された土地と似ている。
だが、決定的に違う。
重さがない。
息苦しさも、嫌悪感もない。
あるのは──
常識を無視した軽やかさだけだった。
「影……じゃないよな?」
カイが尋ねる。
「ええ。違います」
レオンは即座に否定した。
「影に侵された場所は、もっと“重い”。
ですが、これは……」
草木を見つめるその目が、かすかに揺れる。
「……こちらの理解を、試しているような現象です」
「じゃあ……何なの?」
ミリアの声が震える。
レオンは草むらに手を伸ばしかけ、止めた。
触れれば、何かが壊れると直感したように。
「“上”の気配です」
「上……?」
カイが聞き返す。
「空の上ではありません」
レオンは地面に線を引き、さらにその上に一本、線を重ねた。
「この世界は一枚に見えて、実際には複数の層が重なっている。
その“段”が、ほんのわずかにずれた時……」
草木が、再び枯れ、蘇る。
「時間が、揺れることがあります」
「そんなの……」
ミリアが言葉を失う。
「私のいた場所では、極めて稀にですが……ありました」
レオンは淡々と語った。
「だから、分かるのです」
静かな言葉が、かえって重く胸に落ちた。
草木の変化は次第に激しくなる。
季節が秒単位で入れ替わるかのようだ。
「こわ……」
ミリアが思わずカイの腕を掴む。
「大丈夫」
カイはそう言いながら、自分の鼓動の速さを誤魔化せなかった。
その時。
光片が、強く脈打った。
いつもより深く、速い。
ただの反応ではない。
「……光片も?」
ミリアが目を見開く。
「恐れてはいません」
レオンは光片を見つめた。
「……むしろ、“懐かしんでいる”」
「懐かし……?」
カイは戸惑いながらも、妙に納得していた。
手の中の光片は、
誰かを探すように脈を刻んでいる。
「これ……“上層”と関係ある?」
ミリアが慎重に問う。
「おそらく」
レオンはうなずいた。
「別の層の気配が漏れ出すと、こうした現象が起きる。
そして──」
草木を見つめたまま、続ける。
「詳しい者が近くにいれば、揺れは強くなる」
カイは、言葉の意味を噛みしめた。
「……誰かが、近くにいる?」
「可能性は高いでしょう」
レオンは低く言った。
「まるで、“気づいてほしい”と主張しているかのようです」
その瞬間。
草木の動きが、ぴたりと止まった。
「……っ」
ミリアが息を詰める。
風が消えた。
音が消えた。
世界が、張りつめる。
そして──
光片が、強烈に脈打つ。
「……呼んでる」
カイの口から、自然に言葉がこぼれた。
「どこへ、でしょうね」
レオンの声にも緊張が滲む。
「空白域の……中心」
ミリアが震える声で言う。
レオンは深くうなずいた。
「記録が消されていた場所。
そこから、この異常は広がっています」
カイは光片を見つめた。
脈は早い。
だが、恐怖ではない。
会いたい相手が、すぐ近くにいる。
そんな感情が、確かに伝わってくる。
「レオン……あなた、知ってるんだろ」
カイが言う。
レオンは一瞬、目を伏せた。
「……はい」
だが、すぐに顔を上げる。
「すべてを語るには、まだ早い」
その瞳の奥に、かすかな震えが宿っていた。
「ただ、ひとつだけ言えることがあります」
止まった草木を見つめ、レオンは言う。
「これは、私の故郷で──
“上の段から、何かが降りてきた時”と、非常によく似ている」
「……何が?」
ミリアが尋ねる。
「分かりません」
レオンは正直に答えた。
「ですが、無関係ではないでしょう」
深く息を吸い、言葉を結ぶ。
「進みましょう。
この反転する時間の奥に……理由があります」
三人は顔を見合わせ、うなずいた。
恐怖はある。
だが、それ以上に──知りたい。
草木の境界を越え、一歩踏み込む。
その瞬間、
葉がかすかに震え、再び時間が揺れ始めた。
世界の縫い目が、ゆるむ。
その奥から、
別の段の気配が、確かにこちらを見ていた。
空白域の中心へ。
三人は、もう戻れない場所へと進み続ける。




