第62話 地図にない空白域
森の夜道は深く暗く、湿った土と苔の匂いが足元から立ちのぼっていた。
三人は光片の脈に導かれながら、山小屋から離れた細い山道を慎重に進んでいく。
虫の声はない。
獣の気配もない。
聞こえるのは、風が木々を揺らす低い音だけだった。
「……この静けさ」
ミリアが声を落としてつぶやく。
「ちょっと変じゃない?」
「ええ」
レオンは穏やかに答えつつ、視線だけは闇を鋭く探っていた。
「夜の森は、本来もっと“生き物の存在”を感じさせるものです。
ここまで音が消えているのは、自然とは言い難い」
まるで──
何かが、森そのものを息止めさせているかのようだった。
しばらく進むと、道がわずかに開けた場所に出る。
レオンが手を上げ、静止を示した。
「ここで一度、立ち止まりましょう。
闇雲に進むのは得策ではありません」
「賛成。正直、ちょっと休みたい」
ミリアは肩から下げた袋を降ろし、その中から“記録板”を取り出した。
それはこの世界の風景から明らかに浮いた道具だった。
薄い木片のようでいて、触れると表面に淡い光が走り、
歩いた軌跡や周囲の気配が、線と濃淡で刻まれていく。
観測者たちが使う、世界の動きを読むための技術。
「山小屋を出てからの記録……ちゃんと残ってるかな」
ミリアが板の表面をなぞると、
光の筋が浮かび上がり、ここまでの道のりが再現された。
カイはその様子を横目に、手の中の光片を見る。
脈は続いている。
静かだが、確かに“止まる気配”はなかった。
「カイ様、光片は?」
レオンが静かに尋ねる。
「まだ脈打ってる。落ち着いてはいるけど……
何かを示してるのは、間違いない」
「なるほど」
レオンはうなずいた。
「では、現在地と照らし合わせましょう」
ミリアが地図を広げ、記録板と重ねる。
「……あれ?」
かすかな違和感が、声に滲んだ。
「どうしました?」
レオンが問いかける。
「この辺りの記録……抜けてる」
「抜けている?」
カイも身を寄せて覗き込む。
光の線で描かれた道の途中、
森の一角だけが、ぽっかりと空白になっていた。
「山小屋の周りは、こんなに細かく残ってるのに……
この範囲だけ、記録がない」
「装置の不調という可能性は?」
レオンが冷静に尋ねる。
「それなら、もっと広く乱れるはずだよ」
ミリアは首を振る。
「でもここは違う。
形を整えたみたいに、きれいに消えてる」
彼女の指が、空白の境界をなぞる。
確かにそれは、
自然に抜け落ちたのではない。
切り取られた跡だった。
「……誰かが、消した?」
カイは無意識に声を潜めた。
「うん。それも雑じゃない。
“見られたくない部分だけ”を、正確に」
レオンが小さく息を吸う。
「となると、未踏の地ではありませんね」
「うん。本当の未踏なら、最初から“何もなかった”はず。
でもここは……記録があった形跡だけが残ってる」
「つまり」
レオンが静かに言葉を継ぐ。
「誰かが通り、何かが起きた。
しかし、その核心だけが消されている」
「そう。そして……」
ミリアは言葉を選びながら続けた。
「一番いやなのは、この消し方」
「まだあるのか」
カイは苦笑する。
「本気で隠すなら、もっと自然に消せるはずなのに……
これは、“気づく人には気づく”ように残されてる」
レオンの眉がわずかに寄る。
「……なるほど」
穏やかな声が、逆に不穏さを強めた。
「見せる相手を選んでいる可能性がありますね」
その言葉に、空気が冷えた。
「それって……誰が?」
カイが問う。
ミリアは答えず、ちらりとレオンを見る。
「記録板の仕組みを理解してる人。
普通の人には、絶対に無理」
「この世界の住人ではなく……
“外の技術”に精通した者、ですか」
レオンの声には、確信が混じっていた。
カイの脳裏に、
一度だけ会った研究者の姿が浮かぶ。
──J。
だが、まだ断定はできない。
「それでね」
ミリアが地図を指した。
「この空白域……あたしたちが向かってる方向と、ほぼ完全に重なってる」
カイの手の中で、光片の脈がわずかに強まった。
「……偶然じゃないな」
「ええ」
レオンは静かに言う。
「これは、意図的に地図から消された領域。
そしてあなた方は、そこへ導かれている」
「戻る、って選択肢は……ないよね」
ミリアの声が小さく震える。
「戻れば安全とは限りません」
レオンは穏やかに首を振った。
「むしろ、知らぬまま触れるほうが危険でしょう」
カイは光片を見つめた。
まるで見返すように、
光は一定のリズムで脈打っている。
「行こう」
静かな声だったが、迷いはなかった。
ミリアもうなずき、記録板をしまう。
レオンはいつもの調子で言った。
「では、進みましょう。
この空白が、誰の意図によるものか──確かめるために」
三人は再び歩き出す。
赤い光が脈打ち、
闇の中に細い道を描き続ける。
その空白は、偶然ではない。
誰かが残した、招待状のような痕跡だった。
それが
導きなのか。
それとも罠なのか──
まだ、誰にも分からない。




