第56話 影の胎動
影の巣全体が、巨大な心臓みたいにどくどくと脈打っていた。
黒い霧は渦を巻き、空気そのものがねじれている。
巣の中心――あの「光の芽」の周りだけ、霧の濃さが目に見えて増していく。
その瞬間だった。
「……っ、嘘だろ……?」
レオンが震える声でつぶやく。
視界はノイズだらけなのに、その“形”だけははっきり見えた。
黒い霧が――まとまり始めていた。
◆◆ 影が「身体」を作り始める
それは、ゆっくり。だが確実に形になっていく。
影の束が絡まり、溶け、
細い線が何本も集まって――やがて“人の輪郭”を描き出し始めた。
上半身。
首。肩。腕のようなもの。
まだ完全ではない。
影が垂れては揺れ、揺れてはねじれ、
まるで生まれる直前の胎児のように、不安定な半端な形だ。
輪郭はぐらぐらしていて、定まらない。
それでも――何かが「生まれようとしている」ことだけは、はっきりしていた。
「……泣いて……る……?」
ミリアが弱々しい声でつぶやく。
影の頬から、黒い霧がすーっと流れ落ちている。
一見すると涙のようだが――
その影は、泣いているわけではなかった。
音はほとんど聞こえないのに――
笑い声と泣き声が、同時に重なって響いている。
空気が震えているわけでもない。
耳の鼓膜に直接届いているのかすら曖昧だ。
それでも「聞こえてしまう」。
影が、いろんな感情を同時に再生しようとしているのだ。
真似してきた声たちを、一つの体に押し込んで、無理やり混ぜ合わせようとしている。
そしてそれは――ただの形ではない。
他人から奪った「輪郭」まで使って、身体を組み立てていた。
「……融合している……」
レオンがかすれた声で呟く。
「町の人たちの“形”……
記憶の欠片……ミリアの反応……
全部まとめて奪って、混ぜて……
“新しい身体”を作ろうとしている……」
巣の中心に浮かぶ影の上半身には、
未完成な顔の輪郭がいくつも重なっていた。
笑っているようにも見え、
泣いているようにも見え、
喜んでいるようで、恨んでいるようにも見える。
顔が一つ浮かんでは、すぐに別の顔に変わり、
どれも最後まで完成せずに捨てられていく。
――浸食者が、奪った「形」を全部かき集めて、一つの身体にしている。
◆◆ ミリア、限界
「……もう無理……」
ミリアが、小さく声を漏らした。
その直後――
巣の鼓動が、さらに一段階強く跳ね上がる。
影の糸が弾けるように広がり、黒い風となって吹き荒れた。
その衝撃が、真正面からミリアを襲う。
「――っ!」
ミリアの身体がふわりと宙に浮き、
次の瞬間、容赦なく床へ叩きつけられた。
胸の黒痕が、心臓の真上で激しく震え――
そして、ぴたりと動きを止めた。
「ミリアッ!!」
レオンが叫び、立ち上がろうとするが、膝が崩れた。
目まいとノイズで、まともに立っていられない。
ミリアは、完全に意識を失っていた。
残っているのは、かろうじてつながっている弱い鼓動だけ。
(……あと少しで……ミリアは……本当に……)
レオンの視界が白くにじむ。
◆◆ 光片の「怒り」
その時だった。
カイの胸で――
青い光片が、はっきりと怒りを示すように強烈な光を放った。
影の胎動に反応している。
いや、それだけではない。
明確に、影を敵だと認識している。
カイはゆっくりと立ち上がった。
足は震えていない。
光片の脈動が、影の圧力を押し返してくれている。
影の身体が、目に見えてびくりと揺れた。
「……きみ……」
「きみのかたち……」
「ほしい……」
「ちょうだい……」
影の声が、何重にも重なって響く。
幼い女の子みたいな声。
少年の声。
老人のうめき声のようなものまで。
それらがひとつの影の身体にまとわりつき、
どれが本物かもわからない“気味の悪い合唱”になっていた。
カイは拳をぎゅっと握りしめる。
「――ふざけるなよ」
胸の奥から、怒りがこみ上げてきた。
白い夢で、自分を呼んでくれた少女の声。
目の前で倒れたミリア。
限界まで削られているレオン。
そして、この巣が奪っていった数えきれない「形」たち。
全部――許せなかった。
(ミリアを、奪わせない。
あの“声”も……影なんかに渡さない)
カイは影の巣の中心へ、迷わず踏み込んだ。
足元の地面は、黒い泥のように沈み、波打つ。
吐く息は白くもならないのに、空気だけが異常に冷たい。
影の胎動が、まるで「歓迎」しているみたいに手を伸ばしてくる。
それでも――
カイは一歩もひるまなかった。
「ミリアを返せ。
町の人たちの“形”も……全部だ。
お前らの身体なんか――俺がぶっ壊す!!」
叫びと同時に、胸の光片が爆発するみたいに輝いた。
その光が、巣のど真ん中へ叩き込まれる。
影の雰囲気が、一瞬で変わった。
巣全体が震え、
影の身体がよろめき、
光に触れた部分から、黒い霧がじりじりと焼かれていく。
「――――ッ!!」
男でも女でもない、
泣き声とも笑い声ともつかない、
無数の悲鳴が一度にあがった。
◆◆ レオンの“観測”
レオンは、その背中を見ていた。
視界は揺れ、記憶は途切れ、
自分の輪郭すら安定しない。
(……カイ……頼む……
もう、俺は……動けない……)
膝に力が入らない。
頭の中は砂嵐みたいにかき乱されている。
(今の光……
影の巣の構造そのものに、正面からぶつかっている……
この瞬間が――)
レオンは、ぼやけていく意識の中で理解した。
この瞬間こそが、反転したこの場所の“運命”を変える分かれ目だ。
そして同時に――
カイ自身の「正体」に、もう一歩踏み込む瞬間でもある。
(俺がまだ、“観測者”でいられるうちに……
この光景を、目に焼き付けておかないと……)
輪郭が削れても。
時間が飛んでも。
記憶がこぼれ落ちても。
レオンはただ一つ、
カイの背中と、闇に焼き付く光だけを見続けていた。




