第55話 観測者の限界
ミリアの呼吸は浅くなり、胸の黒い痕が不気味に脈打っている。
レオンは彼女を支えながら歯を食いしばったが――そのとき、自分の視界が大きく揺れた。
影の巣の中心は、もはや“限界点”だ。
ここに観測装置なしで踏み込むのは、ほとんど自殺と変わらない。
(……だが、今は離れられない……ミリアが……)
そう思った瞬間、視界が“真っ黒”になった。
――次の瞬間。
レオンは、まったく別の姿勢で立っていた。
(……は?)
ミリアを抱えていたはずの腕は空をつかみ、足元にはカイの足跡。
ほんの一瞬のはずなのに、その間に何があったか覚えていない。
時間が飛んだ。
「……また、か……」
胸が急に苦しくなる。
これはただの混乱ではない。
巣の鼓動が強くなるたび、
レオンの“時間の感覚”が削られていく。
◆ミリアが消えかける
「レオン……に……げ……て……」
ミリアがかすれた声で言う。
しかしその声も途中で消え、響くはずの言葉がどこかへ吸い込まれた。
レオンが彼女を見ようとした瞬間――視界がまた揺れた。
ミリアの輪郭が、一瞬だけ透けた。
存在そのものが薄くなり、
“向こう側”に引きずられかけているのが分かる。
「……ッ……!」
(まずい……。
ミリアが危険なのは分かる……だが、俺の認識が追いつかない……!)
自分の状態すら把握できない。
助けようにも、思考がもつれ、時間が連続しない。
◆巣の脈動がレオンを削る
巣が大きく揺れた。
黒い霧が荒れ、影の糸が空気を切り裂くように散る。
その衝撃だけで、レオンの頭の中がさらに削られた。
そして――
レオンの腕が、一瞬だけ影に沈んだ。
黒い霧の中へ吸い込まれ、
腕の形がゆがむ。
「ぐっ……!」
必死に引き戻したが、腕に残ったのは――
“存在そのものを少し持っていかれた”痛み。
肉体の痛みとは違う。
もっと深いところを削られる感覚。
「俺……まで……飲まれて……」
息が荒くなり、視界が二重に揺れる。
(このままでは……俺が……消える……)
観測者が最も避けるべき状態――
自分の存在を認識できなくなること。
それは、“観測者としての死”を意味する。
レオンは片膝をつき、頭を押さえた。
◆時間の断片だけが残る
「レオン! 大丈夫か!」
カイの声が遠くで響くが、距離が分からない。
近いのか、遠いのか、方向すら曖昧だ。
「……カイ……俺は……」
言葉を続けようとした瞬間――視界がまた白く切り替わる。
気づくと、レオンの立つ位置が変わっていた。
巣の光の芽が正面に見える。
自分が前に動いたのか、後ろに下がったのか――判断できない。
「……時間が……飛んでる……」
(巣の影響で、俺の“記憶のつなぎ”そのものが削られている……
観測装置も準備もなしでここへ来たのは……無謀すぎた……)
影の子の声が響く。
「こわいの……
きえちゃうの……
きみも……こっち……」
その声に呼応するように、レオンの輪郭がまた歪む。
「……ッ……!
く……そ……!」
世界が二重に揺れ、
身体はそこにあるのに、輪郭だけが影へ引っぱられる。
(俺が倒れれば……この現象を理解できる者がいなくなる……
この災厄の正体を、誰も追えなくなる……)
レオンは、それでも踏みとどまった。
◆レオンの限界
視界の先で、カイの胸の光が脈打つ。
影の子が泣き叫び、ミリアはもう意識をほとんど失っている。
(……もう限界だ。
次に意識が飛んだら……俺は“観測不能”になる……)
その恐怖が、わずかにレオンを支えた。
だが――影は容赦なく迫る。
視界が黒く染まり、
レオンの意識が、一瞬だけ完全に闇へ沈んだ。
◆カイの背中
目を開けると、すぐ目の前にカイの背中があった。
「……カイ……?」
「レオン、もう下がれ。ミリアは俺が助ける。
お前は……これ以上来るな!」
カイの声は強く、はっきりしている。
胸の光片が、鼓動のように光を打ち出していた。
レオンは震える指で額を押さえながら、その光を見つめる。
(……俺はもう、ギリギリだ……
これ以上、深く触れれば……本当に壊れる……)
足が震えて動かない。
(カイ……頼む……
俺がまだ“観測者”でいられるうちに……
少しでも、この現象を……記録できるうちに……)
レオンは、絞るように呟いた。
「……倒れるわけには……いかないんだ……
俺が倒れれば……すべてが闇のままだ……」
黒い影が輪郭を削り、
記憶が途切れ、
時間が飛び散っても――
観測者としての最後の線だけは、まだ辛うじて残っていた。




