第51話 深層の脈
黒い亀裂が口をあけた倉庫の中は、
さっきまでと同じ場所のはずなのに――もう、別の場所みたいだった。
◆◆ 影が呼吸している
最初に変化に気づいたのは、ミリアだった。
「……ねえ、カイ。今、聞こえた?」
「え?」
「空気が……息してるみたいな音」
カイは息を止め、耳を澄ます。
静寂。
だけど、その奥で――かすかに「吸って、吐いて」をくり返す音がある。
風の音じゃない。
人の呼吸でもない。
影が、呼吸していた。
柱の根元に落ちた影が、ふくらんでは、しぼみ。
壁に貼りついた影が、肺みたいにふくらんで、しぼんでいく。
「……気持ち悪い……」
ミリアが、黒い痕の残る腕を押さえた。
さっきより、痛みがはっきりしてきている。
レオンは無言で、影の動きと床の亀裂のうごめきを見比べた。
「この場所そのものが、“何か”を吸い込もうとしている」
「吸い込む……?」
「もうここは、ただの倉庫じゃない。
世界の奥に突き刺さった穴みたいなものだ。
外から来た力が、この倉庫を通って中に流れ込んでいる」
言葉の意味を全部は理解できなくても、
カイの肌はゾワっと粟立った。
(この空気……生きてる。
この場所そのものが、何かを飲み込もうとしてる……)
◆◆ 透ける壁
そのとき、視界の端で違和感が走った。
「……今、壁が……」
倉庫の壁が、一瞬だけ“薄く”なった。
外の空が透けて見えたかと思うと、
すぐにいつもの木の色へ戻る。
また薄くなり、また戻る。
それをくり返していた。
「これも……この場所のせい……?」
ミリアが眉をひそめる。
レオンは小さくうなずいた。
「この倉庫はもう、“表の世界”と“裏の世界”の境目になっている。
見えない波みたいなものが打ち寄せるたび、
こっち側が一瞬だけ裏返るんだ」
カイは壁にそっと手を伸ばした。
ざらついた木の感触。
ここに“ある”という確かな手応え。
しかし、次の瞬間――
「……っ!?」
指先は、何も触れなかった。
手は壁をすり抜け、空をかいた。
慌てて引っ込めると、
目の前にはさっきと同じ、分厚い木の壁がある。
「今……そこに、なにもなかった……」
「一瞬だけ、“こっちの壁”が消えたんだろう」
レオンが言う。
「さっきからずっと、この倉庫は
表の世界と裏の世界を交互に出たり入ったりしている。
そのたびに、どこかの何かが少しずつ削られていく」
そう説明しながら、彼自身も額を押さえた。
見えない世界の揺れをずっと見続けているせいで、
レオンの頭は限界に近づいていた。
◆◆ 逆向きの足音
「……ねえ、聞こえる?」
ミリアが声をひそめる。
カイも、とっくに気づいていた。
足音がする。
だがそれは、ふつうの足音ではなかった。
自分たちは前に進んでいる。
なのに聞こえてくるのは、“遠ざかっていく足音”ではなく――
逆向きに戻っていく足音。
まるで誰かが、自分たちの足跡だけを逆再生しているみたいな音だった。
カイが足を止めると、音も止まる。
また歩き出すと、“戻っていく足音”もついてくる。
「……気味悪い……」
ミリアが肩をすくめる。
レオンは冷静に言った。
「この辺りは、時間の流れまでおかしくなっている。
俺たちの体は前へ進んでいるのに、
足跡だけが“過去のほう”へ引っ張られているんだ」
「そんなの……ありえないだろ」
「本来なら、ありえない。
だからこそ、ここは“あの化け物の巣になる場所”だ」
言葉の端に、苛立ちが混じっていた。
レオンはこういう“理屈が通らない歪み”を、何よりも嫌う。
◆◆ ミリアの黒い痕
「……っ」
ミリアが急に膝をついた。
「ミリア!?」
カイが慌てて支えると、
彼女の腕の黒い痕が、さっきより濃くなっているのが見えた。
蔓のような模様が、皮膚の下でうごめくように動いている。
「痛い……! さっきまでこんなんじゃ……なかったのに……!」
息をするたび、黒い痕が脈打つ。
さっきの“影の呼吸”と、どこか同じリズムで。
レオンが素早く駆け寄る。
「見せてくれ」
ミリアの腕に触れた瞬間、
レオンの表情が険しくなった。
「……この黒い痕、さっきからここ全体の鼓動と同じリズムで動いてる。
この場所と、ひどく強くつながってしまっている」
「つながってる……?」
「この倉庫があいつらの巣になる場所だとしたら――
ミリアの黒い痕は、そこへつながる“目印”みたいなものだ」
ミリアの顔から血の気が引く。
「じゃあ……私……」
「勘違いするな。お前のせいじゃない」
レオンはきっぱりと言った。
「問題なのは、その“目印”が
これ以上、向こう側に引っ張られないようにすることだ」
カイはミリアを支えながら、強く唇をかんだ。
(ミリアまで……狙われてる……)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
自分のせいで、
大事な人まで巻き込まれている気がしてならなかった。
◆◆ ひっくり返らない存在
そのとき、レオンがカイを見た。
いつになく、真剣な目だった。
「……一つ、決定的なことに気づいた」
「え?」
「この倉庫の中で、
さっきから“まったく揺らされていない”やつが一人いる」
ミリアが痛みをこらえながら顔を上げる。
「そんなの……いるの……?」
レオンは静かに言った。
「カイだ」
「……は?」
カイは自分を指さした。
「俺が……どうした?」
「さっき、壁が透けたとき、
お前の輪郭だけは“かけなかった”。
影が呼吸していたときも、お前の影だけほとんど揺れていない。
足音が逆向きに聞こえる現象も……
お前だけは、足跡の“筋”が読み取りにくい」
「それは……」
「ミリアの黒い痕は、この場所に強く引かれている。
俺は見えない揺れを見続けて、少しずつ削られている。
だが、お前だけは――」
レオンは一呼吸おいてから、はっきりと言った。
「この“ひっくり返り”の影響を、ほとんど受けていない」
空気が、少し重くなる。
ミリアが目を見開いた。
「ひっくり返りが……効かない?」
「そうだ。
この場所は、世界のルールをねじ曲げて、
建物も水も影も、人の輪郭さえも変えようとしている。
なのに――カイ、お前だけは例外だ」
「例外って……」
カイは、胸の奥にざわざわした違和感を覚えた。
(俺だけ……効いてない……?
じゃあ俺は、この世界の決まりの外にいるってことか?)
そう考えた瞬間、喉がカラカラに乾く。
レオンは続けた。
「普通のこの世界の住人なら、
少しずつでもこの歪みに引きずられていく。
だが、お前は“どう扱っていいかわからない存在”として
この世界から見られている」
「どう扱っていいか、わからない……?」
「簡単に言えば――
この世界の仕組みは、お前を前提に作られていない。
だから、世界の歪みも、お前には届きにくい」
ミリアが震える声で言った。
「じゃあ……カイは……」
「この世界の“内側だけの存在”としては、
最初から数えられていない可能性がある」
倉庫の空気が、一瞬止まったように感じた。
◆◆ カイの揺れ
「ちょっと待てよ」
カイは思わず声を荒げた。
「俺は記憶はないけど……
ミリアに拾われてから三年間、この街で生きてきたんだぞ」
「それは否定しないさ」
レオンの声は静かだった。
「お前がここで生きてきたことと、
この世界の“奥側から見たときの立場”は別の問題だ」
「別……?」
「ミリアは、この場所に“引かれて”いる。
俺は、見えすぎて“削られて”いる。
だが、お前だけは――」
レオンは、カイを真っ直ぐ見た。
「ここにいながら、“あっち側”から触れられていない。
まるで、何かが意図的に“お前を守っている”みたいに」
カイは言葉を見失った。
そのとき――
胸元の青いかけらが、かすかに震える。
(……守ってる……?)
あの白い夢の中で聞いた声が、頭の中をよぎる。
――かい……
――……いて……
――そこに……
ミリアが、カイの袖をぎゅっとつかんだ。
「私は黒い痕で“引かれてる”。
レオンは見えすぎて危ない。
でも、カイは――ここにいてくれる。
この世界の“外側”に落ちずに、今ここにいる」
その言葉は、
崩れそうな足場の上で差し出された手のように、
カイの胸に染み込んだ。
カイは、つかまれた袖を見下ろし、ゆっくり頷く。
「……俺はここにいる。
少なくとも今は、この場所で、二人と一緒にいる」
青いかけらが、
ほんの少しだけ、あたたかく脈を打った。
◆◆ 高鳴る“この場所”の鼓動
そのとき――
倉庫全体が、大きく揺れた。
影の呼吸が荒くなる。
壁が透ける回数が増え、
床の亀裂もさらに広がっていく。
「……くそ、ここ全体の鼓動が強くなってきてる」
レオンが顔をしかめた。
「あの化け物の“巣作り”が、本格的に始まったな。
このままだと、ここが新しい“化け物の体”の中心部になる」
「ってことは……」
「今起きているおかしな現象は、まだ序の口だ。
このまま進めば、この街の“形”そのものが崩れていく。
その起点が――この穴だ」
ミリアが黒い痕を押さえながら、かすれ声で言う。
「じゃあ……ここで止めなきゃ……」
カイは剣の柄を強く握りしめた。
倉庫の鼓動は、どんどん速くなる。
影は激しく息をし、
空気は巨大な心臓の中にいるみたいに、どくどくと脈打っている。
(俺だけが、この歪みに巻き込まれない。
俺だけが、ここの変化に触れられていない。
だったら――)
カイは静かに息を吸った。
「この中に踏み込めるのも……
もしかしたら、俺だけなのかもしれないな」
その言葉に、
レオンとミリアは目を見開いた。
倉庫の鼓動はさらに速くなる。
影と光。
外から来たものと、中で生きてきたもの。
そのすべてが、“例外”であるカイに向かって、
少しずつ集まり始めていた。




