第50話 反転域
西区の空気は、その朝からおかしかった。
風は吹いているのに、木々の影だけが揺れない。
光の向きに逆らって、影が別の方向へ伸びていく。
まるで太陽が二つあるみたいな、不安定な世界だった。
「ここだ……青いかけらが、何度も反応してる」
カイの胸元に下げられた“青いかけら”が、
心臓みたいに点いたり消えたりを繰り返していた。
その明滅は、街外れの古い倉庫が並ぶ一角――倉庫街の方を指している。
ミリアは、黒い痕の残る腕を押さえながら周囲を見回した。
「このあたり、すごくおかしい……
影の動きが、全部逆になってる……」
「世界の奥のほうが揺れてるな」
レオンは目を細める。
彼には、カイには見えない“見えない線のゆがみ”が、
空間一面にひびのように走って見えていた。
「……嫌なゆがみ方だ。
ここは、あの化け物が姿を作る前に使う“たまり場”に近い」
「たまり場……?」
「あいつらが出てくる前に、歪んだものを一ヶ所に集める場所だ」
聞き慣れない説明だったが、
レオンの声がいつもより低いだけで、十分伝わった。
何かが始まっている。
取り返しがつかなくなる前の、いやな予感がした。
「カイ。青いかけらの反応は?」
「さっきより強い。……こっちだ」
カイは路地を進み、倉庫街の奥へ向かう。
古びた木造の倉庫が並び、
昼間なのに、空気がやけに重く静かだった。
人の姿はどこにもない。
影だけが、ゆらりと別の方向へ揺れている。
◆◆ 水面に浮く影
「見て、あれ……!」
ミリアが指さした。
倉庫の横を流れる細い水路。
水面に映っているはずの影が――沈まずに“浮いていた”。
川の流れとは逆向きに、影だけが水の上をゆっくり流れていく。
「……影が、落ちてない……?」
カイの背筋に寒気が走る。
レオンが小さくつぶやいた。
「この辺りでは、普通の重さの向きが狂っている。
本来、影は物にくっついて動くだけの“おまけ”みたいな存在だ。
だがここでは、影のほうが主になりつつある」
ミリアが息を飲む。
「ということは……?」
「この一帯は、世界そのものが裏返りかけている。
外から来た力がこの場所に入り込み、
おかしな空間を作りはじめているんだ」
その言葉に、カイは手のひらの汗を拭った。
青いかけらの明滅は、さらに速くなる。
(ここに……何かがいる)
ただの勘ではなかった。
胸の奥で、あの少女の声がざわついた気がした。
――かい……
――そこは……ちがう……
(まただ……)
ミリアが心配そうにカイを見つめる。
「大丈夫?」
「……ああ。行こう」
◆◆ 一番奥の倉庫
三つ目の倉庫の前まで来たときだった。
カイの胸の青いかけらが、はじけるように明るく光る。
ミリアが驚いて一歩下がる。
「なに……これ……こんなに強く光くなんて……」
レオンは倉庫をじっと見つめた。
「間違いない。ここが中心だ」
倉庫は古い木で組まれていて、
壁にはひびが入り、屋根も半分崩れている。
けれど――それ以上におかしいものがあった。
倉庫の“影”が、建物とは逆の方向へ伸びていたのだ。
まるで建物のほうが、影から逃げようとしているみたいだった。
「入るぞ。気をつけろ」
レオンの言葉に、カイとミリアは無言でうなずいた。
◆◆ 揺れる倉庫の中
中は暗く、湿った木の匂いが鼻をつく。
だが――そこで見えたのは、
“落ち着きのない世界”だった。
古い棚から伸びる影だけが、逆さまに揺れる。
床板が、瞬間的に“裏側から光っている”ように見えることがある。
視界の端では、時間がゆっくりになったり、早くなったりしているように感じる。
そして――
足元一面に、黒い糸のようなものが張り巡らされていた。
「……これ、影が集まってる……」
ミリアが震える声で言う。
レオンはしゃがみ込み、その黒い糸を観察した。
「影が濃く固まりはじめると、こうやって糸のようになる。
これは、あの化け物たちが姿を作るための“入り口”だな」
「入り口……」
カイは息をのんで、青いかけらを握りしめる。
かけらは一段と強く光った。
――かい……
――……そこは……おちる……
少女の声が、耳の奥で震える。
(……落ちる?)
考える間もなく、レオンが顔をあげ、低い声で言った。
「……来る」
◆◆ 床の下へ“引きずり込まれる”感覚
その瞬間――
倉庫の中の影が、一斉に“下”へ沈んだ。
カイたちの足元も、ぐらりと沈む感覚に襲われる。
「床が……動いた……!?」
「ここから先は危険だ!離れるな!」
レオンの叫びと同時に、
床板の隙間が裂け、真っ黒な穴が覗いた。
影が、そこへ吸い込まれていく。
本来、影は地面に貼りつき、落ちていくことはない。
だが今、影そのものが“地下へ落ちている”。
それは、この場所の“表と裏”がひっくり返り始めている証拠だった。
(まずい……!)
カイはとっさにミリアを引き寄せる。
レオンは、裂けた床の形を素早く見極めながら叫んだ。
「ここが、“世界の裏側”へつながる穴だ!」
「世界の……裏側……?」
「あの化け物が、新しい姿を作るための、
一番深い場所だ!」
その言葉と同時に――
カイの胸で青いかけらが、爆発したように光った。
まぶしい青が倉庫全体を照らし、
床の黒い亀裂の縁をなぞるように輝く。
かけらが示している方向は――
裂けた床の、真下。
(この下に……何かがいる)
カイは無意識に口を開いた。
「……この光が、ここが“中心だ”って言ってる」
レオンの表情が、わずかに強張る。
「青い光がこれほど強く反応するということは……
ここは、化け物だけの場所じゃない。
“光のほう”も、この下に落ちてきているのかもしれない」
ミリアが息を呑んだ。
「じゃあ……カイが夢で聞いた声も……?」
レオンはすぐには答えなかった。
だが、その沈黙自体が、何かを肯定しているように感じられた。
床の黒い裂け目は、じわじわと広がっていく。
影が吸い込まれ、物の輪郭が揺らぎ、
倉庫そのものが“裏側”へ引きずられていく。
「これが……世界の裏側に落ちる場所……」
カイは、穴の中心を見つめた。
黒い底は見えない。
覗きこむたびに、鼓動が早くなる。
怖いのに、不思議と懐かしい感覚もあった。
ミリアが震える声で問う。
「カイ……この下に、何があるの……?」
カイの手は、自然と青いかけらを握りしめていた。
(呼ばれてる……
でも、落ちたら戻れないかもしれない……)
レオンが静かに言う。
「ここは、あの化け物が新しい姿を作りはじめる場所だ。
だが、それだけじゃない。
“もうひとつの何か”も、ここに重なっている」
影の残りかすと、青い光。
両方が、この場所に集まっていた。
カイは深く息を吸った。
「……行こう。
たぶんここが、全部の“始まり”なんだろ?」
黒い穴は、音もなく脈打っていた。
その底で何かが形を作ろうとしていることだけは、
誰にでもわかった。




