第46話 黒い夜風
日が落ちた途端、街の空気は冷たく沈んだ。
昼間のざわめきは消え、
人々は戸を閉め、小さな灯りだけを頼りに夜を待つ。
だが、この夜風は違う。
黒い——
いや、色ではない。
“黒い粒子が混じっている”。
風が通るたび、光を持たない砂のような粒が漂い、
その軌跡はまるで “世界の隙間から漏れた闇” が散っているようだった。
(……なに、これ……?)
ミリアは庭に立ち、風を受け止めるように手を伸ばした。
指先をかすめた粒子は冷たくなかった。
代わりに――何も触れなかったような感覚 を残した。
「……空白……?」
薬師として“生命の手触り”に敏感なミリアだからこそ分かる。
これは世界と一切反応していない。
存在しながら、存在していない。
そんな異物だった。
◆家畜の影が揺れる
「ぎゃっ!」
隣家から山羊の叫びがあがった。
ミリアは走って駆け寄る。
柵の中で震える山羊。
そして――
「影……?」
山羊の影が揺れていた。
体の揺れではない。
風でもない。
影だけが“本来の光の向きと違う方向”へ伸びたり縮んだりしていた。
「……こんなの、ありえない……」
揺れは激しくなり、山羊の呼吸も乱れていく。
黒い粒子が山羊の影へ吸い寄せられ、触れた瞬間――
影が痙攣し、山羊は悲鳴を上げた。
「大丈夫、落ち着いて……!」
抱きしめれば体温はある。
生気もある。
だが影だけが震え、形を保てず、
まるで“侵食されている”ように見えた。
◆植物が“影の方向にだけ”枯れる
裏庭でも音がした。
ミリアが向かうと――息を呑んだ。
「……嘘……」
庭の植物が枯れている。
それも “影の方向だけ”。
ランプが作る影。その影に沿って葉がしなび、
色が抜け、生命が吸い取られたように縮む。
「影に……奪われてる……?」
薬師としての常識では説明できなかった。
植物は光に反応する。
魔力にも反応する。
だが影は、ただ“光の反対側”でしかないはずなのに――。
(影の方向にだけ……死んでいく……?)
黒い粒子が影に落ちるたび、影が脈動し、
葉が影の側から萎れていく。
枯れた葉から漂う匂いに、ミリアは震えた。
「……無の匂い……?」
腐敗でも乾燥でもない。
生命の対極にある、“何もない”匂いだった。
◆カイのせいじゃない
ミリアは黒い粒子を指でつまんだ。
つまんだはずなのに、感触がない。
ただ指先に “存在が削れるような違和感” が残った。
(……これ、カイの“無効”じゃない)
カイの無効は魔力に反応しないだけだ。
魔術式を拒む特性の一種。
だがこれは、もっと別だ。
魔力より深い——“存在の層”に触れている。
「世界の……外側……?」
思わず口にした瞬間、確信に変わった。
「カイじゃない。
これは……カイよりもっと大きな“何か”」
黒い異常は街全体で起きている。
カイの周囲に限らない。
家畜も植物も、ただ影も黒い粒子に侵されている。
(じゃあ……この黒い粒子は……いったい……?)
ミリアが空を見上げると、
星の見えない夜空の奥で、黒い粒が少しずつ生まれていた。
まるで空が “外側から削られている” ように。
◆影が消える夜
広場から叫び声が聞こえた。
「影が……ないんだ!」
「さっきまで普通だったのに……影だけ消えたんだよ!」
影は存在の安定を示す。
影が消えるのは――
その存在が世界から外れはじめた証拠。
ミリアの胸が凍る。
(レオン……どこにいるの……?
あの人なら、この異常を――)
しかし、レオンの姿はどこにもなかった。
カイもまた、ひとりのまま。
黒い夜風が街をなでるように吹き抜ける。
粒子は静かに、しかし確実に街へ溶けていく。
◆ミリアの決意
「……カイに知らせなきゃ」
ミリアは決意の息を吐いた。
(カイのせいじゃない。
彼はただ巻き込まれているだけ……)
黒い粒子が肩にひとつ落ちる。
冷たくない。痛くない。
ただ――
「自分が薄くなる」ような違和感だけが残る。
ミリアは駆け出した。
◆黒い夜風は“侵食”の始まり
ミリアは知らなかった。
いま吹く黒い夜風は、
レオンが観測殻を外したことで露出した “外側の干渉” が、
街へ広がりはじめた兆候であることを。
黒い粒子は“虚無の残滓”。
影を揺らし、
存在を薄くし、
植物を枯らし、
家畜を怯えさせ、
――そして、いずれ“人の影”すら奪う。
だが街の誰も知らない。
黒い夜風はただの前触れでしかない。
街は今、静かに“外側の影”へ触れ始めていた。




