第43話 謎の少女
その夜、街は奇妙な沈黙に包まれていた。
月は雲に隠れていない。
なのに、どこか“ぼやけて見える”。
まるで透明な膜越しに世界を眺めているようで、
視界がかすかに揺らぎ、輪郭だけが遅れてついてくる。
昼間、影の向きがずれ、水の影だけ逆方向に揺れ、
生活魔法が反転し、時計の針が巻き戻った。
街は、もう「おかしくなり始めている」ではなく――
静かに「別の何か」にすり替わりつつあった。
それに、まだ誰もはっきりと気づいていないだけだ。
◆カイの夜
カイは、自室の古いベッドに横たわっていた。
この家はもともとミリアの祖父母の家だった。
誰もいなくなったあと、いつの間にか――
帰る場所のなかったカイの「居場所」になっていた。
ミリアの家はここから歩いて二分ほど。
両親が残した一軒家に、ミリアはひとりで暮らしている。
(ミリアの家と、レオンの家の……ちょうど真ん中、か)
そんなくだらないことを考えたところまでは覚えている。
眠気が強かったわけではない。
ただ、今日一日、異常が積み重なりすぎて――
頭も心も、限界ぎりぎりまで摩耗していた。
そして、カイは落ちるように眠りに沈んだ。
その夜、カイは“夢”を見た。
◆白い光の世界
気がつくと、カイは白い世界に立っていた。
空も地面も、境界もない。
影も、物音も、匂いもない。
何も“描かれていないキャンバス”の中央に、
ただひとり放り出されたような感覚だった。
(……ここ、どこだ?)
声を出したつもりなのに、音が返ってこない。
自分の声が世界に届かず、喉の奥で消えていくような、妙な違和感。
そのとき――。
『……カイ……』
少女の声が、白の向こうから染み出すように響いた。
澄んでいて、やわらかくて。
なのに、どこか深いところで寂しさと焦りが軋んでいる声。
姿は見えない。
方向もわからない。
ただ、世界そのものが“声になっている”かのように、
音だけがカイの意識に流れ込んでくる。
『……カイ……見つけ……て……』
(見つける……? 誰を? どこで?)
問いかけても、返事はない。
白い光が、ゆらりと揺れた。
世界が波打つように震え、真っ白な床が“水面のように”たわむ。
少女の声が、少しだけはっきりする。
『あなたは……そこにいては……』
(そこってどこだ? ここが“どこか”もわからないのに……)
『……だめ……間に合わ……なくなる……』
(間に合わないって……何がだ!? 何から?)
答えの代わりに、光が一気に強くなった。
視界が白に塗りつぶされ、
世界にひびが入るような音が、耳ではなく頭の中で鳴る。
声が近づく。
本当にすぐそばに――
手を伸ばせば触れられそうな距離に、誰かが立っている気配がした。
振り向きたくなる。
けれど同時に、背筋を冷たい刃でなぞられたような直感が走る。
――振り向いてはいけない。
理由はわからない。
でも、その予感だけは“本能の底”からせり上がってきた。
『……ティ……』
名前のような音が、白の中にこぼれ落ちた。
(ティ……?)
カイが問い返そうとした瞬間。
世界が、砕けたガラスのように崩れた。
光が割れ、視界が落下していく。
『……カイ……はやく……』
それが、その少女の最後の声だった。
◆ミリアの夜
同じころ。
近くの家では、ミリアが布団の上で寝返りを打っていた。
眠れない。
窓の外の景色が、はっきりと“おかしい”からだ。
月が滲み、輪郭が微妙に揺れている。
まるで、誰かが外側からガラスを指でこすって、
世界そのものを揺らしているように。
(……目の疲れ……? でも、違う。昼間からずっと、こう)
不安が胸を締めつける。
何度も頭に浮かぶのは――
夕暮れ時に見た、カイの落ち込んだ横顔だった。
魔法が効かない体質。
それだけで、住民たちから疑いの視線を向けられる。
(カイが原因なわけ、ないのに……)
そう強く思えば思うほど、
胸の奥に小さな“ざわり”が生まれる。
否定すればするほど、不安は濃くなる。
(カイ……本当に大丈夫……?)
そう考えた、そのとき。
――ひそひそ、と。
遠くから、かすかな声が聞こえた気がした。
ミリアは目を開き、上体を起こす。
耳を澄ますと、その声はすぐ近く。
自分の家から二分の距離――
つまり、カイの家の方向からだった。
「……カイ?」
胸のざわつきが、はっきりとした不安に変わる。
ミリアは靴をつっかけ、夜の道へ出た。
冷たい夜風が頬を撫でるのも気にならない。
足は自然と速くなる。
気づけば、ほとんど駆け足になっていた。
◆カイの寝言
カイの家の前に着くと、窓が少しだけ開いているのが見えた。
薄いカーテンがゆらりと揺れる。
その隙間から――。
「……そこ……じゃ……ない……」
カイの声が聞こえた。
寝言にしては、あまりに切迫した響き。
ミリアの心臓が、冷たい手でぎゅっと掴まれたように跳ねる。
(こんな声……聞いたことない……)
迷いながらも、ミリアはそっと扉を叩いた。
「カイ……? 大丈夫……?」
返事はない。
代わりに、また声が漏れる。
「……ティ……」
その一音で、ミリアの思考が一瞬止まった。
(ティ……? 誰?)
胸の中で、不安とは違う“別の感情”がむくりと顔を出す。
カイはいつも、少し頼りない年下で、
自分が「見ていてあげる側」だと、当たり前のように思っていたのに――。
知らない女の子の名前みたいな音が、
カイの口から自然にこぼれたことが、ひどく胸に刺さった。
その瞬間、扉がかすかに開いた。
「カイ!!」
ミリアはほとんど飛び込むように中へ入った。
◆目覚め
カイは、ミリアの呼ぶ声に引き戻されるように、跳ね起きた。
呼吸が荒い。
喉はからからで、心臓が痛いほど速く打っている。
「ミリア……?」
ミリアはカイの顔を覗き込み、目を揺らした。
「苦しそうにしてたの。
『そこじゃない』とか、『見つけて』とか……
それから……『ティ……』って……はっきり呼んでた」
(……やっぱり、聞かれてたか)
夢の感触が、生々しく指先に残っている。
あの白い世界。
あの声。
知らないはずなのに――
どこか懐かしいような響きを持った「ティ」という名。
「……夢だよ。たぶん、ただの悪夢だ」
そう言って笑おうとするが、口元がうまく動かない。
ミリアは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
今日一日の異常が、頭の中でつながっていく。
影のズレ。
魔力の反転。
時間の巻き戻り。
そこに、カイだけが見た“謎の少女の夢”。
(カイ……その子は誰……?)
喉まで出かかった問いを、ミリアは飲み込んだ。
聞いてしまえば、何かが決定的に変わってしまう気がしたからだ。
「……ごめん。心配、かけたな」
カイの声はわずかに震えていた。
ミリアは首を横に振る。
「心配させたいとか、そういうつもりじゃないのはわかってるよ。
ただ……怖かったの。
カイが苦しそうにしてるのも……
知らない名前を、何度も呼んでるのも」
(知らない“女の子”の、名前かもしれないのに……)
そんなことを考える自分に、ミリアは内心で苦笑した。
こんな状況なのに、胸の奥でじわじわ膨らむのは――
不安と、焦りと、居場所を奪われるような感覚。
年下のカイを「守る側」でいられると思っていたポジションが、
見たこともない“ティ”に奪われるかもしれない――
そんな理不尽な妄想が、妙にリアルに感じられてしまう。
カイは、夢を思い返す。
白い光の少女。
「そこにいてはだめ」
「見つけて」
「間に合わない」
そして――「ティ……」。
どれも意味はわからない。
けれど、ただの夢にしては“情報が具体的すぎる”気がしてならない。
ミリアは、小さく息を吸って言った。
「……カイ。何かあったら、ちゃんと言ってね。
夢のことも、怖いことも、全部。
ひとりで抱え込まれたら……私、もっと怖いから」
その言葉に、カイは視線を落とした。
(……俺だって、本当は怖い。
でも、これ以上ミリアまで巻き込みたくない)
「大丈夫。ありがとう」
絞り出した言葉は、半分だけ本音だった。
ミリアは、かすかにうなずく。
だが、胸のざわつきは消えない。
(ティ……って、誰?
カイを“見つけて”って言った女の子?
世界の異常と、関係ある……?
それとも――私の知らない、カイの“特別”?)
問いは増えるばかりだった。
窓の外では、また月が滲んでいる。
その揺らめきは――
まるで、世界の内側から「ここだよ」と叩いているかのようだった。




