第37話 街に忍び寄るノイズ
歪みが閉じてから、三日が経った。
街は、表面上はいつも通りの日常を取り戻しているように見えた。
けれど――その裏で、“おかしなこと”は静かに始まっていた。
◆ ◆ ◆
「……あれ?」
雑貨屋の店主が、店の灯りにしている魔石を指でつついた。
光の結晶が、ぱち、ぱち、と不規則に点滅している。
「魔石切れか……?」
念のため残量を確かめる。
魔石の中の光は、むしろ澄んでいて元気そうだ。
次の瞬間――灯りが“反転”した。
壁に映るはずの影が、光の方に向かって伸びている。
「ひっ……!」
店主の背中に、冷たい汗が流れた。
◆ ◆ ◆
別の家では、台所で鍋の湯がぐつぐつ煮立っていた。
「ママ、影が変だよ……」
子どもの声に、母親が振り返る。
「どうしたの?」
「お鍋の影が……上に行ってる」
母親が鍋を覗き込むと、
湯気の向こう、水面に映る“影”が――
床ではなく、天井の方向へ伸びていた。
「……なに、これ……? 光の魔法の不具合……?」
声が、自然と震えた。
◆ ◆ ◆
中央広場では、子どもたちが鬼ごっこをしていた。
「もういっかーい!」
「まてー!」
にぎやかな笑い声。
その瞬間――
「まてー!」
「もういっかーい!」
さっきと同じ声が、“逆順”で聞こえてきた。
「え……?」
「今の、聞こえたか?」
大人たちが顔を見合わせる。
広場の空気が、じわりと冷たくなった。
◆ ◆ ◆
ギルド近くの民家。
「お父さん、ドアノブが……!」
少年が慌てて叫ぶ。
「どうした?」
「透明になってる!」
父親が振り向くと――
金属のはずのドアノブが、数秒だけ“ガラスのように透けて”いた。
「……見間違いか……?」
「違うよ、本当に透明だった!」
父親は、唾を飲み込む。
「……歪みの余波か?」
その呟きは、すぐに別の言葉へ変わっていく。
「いや……“魔法が効かない剣士”の噂、聞いたか?」
「あいつの近くで、おかしなことが起きてるって……」
「街に災いを呼んでるんじゃないのか……?」
誰も本当のことは分からない。
だからこそ、恐怖だけが大きくなる。
◆ ◆ ◆
街外れの湖。
若い男が、気晴らしに小石を投げた。
「それっ!」
石は放物線を描き、水面へ――
ぽちゃん、という音がしない。
波紋だけが静かに広がり、
石は“無音”のまま沈んでいく。
「……なんだよ、これ……」
男は、湖から目を離せなくなった。
◆ ◆ ◆
「……また起きてるのか」
見回りの途中、異常な現象を目にしたカイは、拳を強く握った。
耳には、街の噂話が嫌でも入ってくる。
『灯りが変な光り方をした』
『影が逆向きになった』
『子どもの声が巻き戻った』
『水の音が消えた』
『魔法が暴走した』
『あれは呪いだ』
『魔法が効かない、あの剣士のまわりが……』
(全部……俺が原因なのか?)
胸がきゅっと締めつけられる。
歪みが閉じたあとから起きている、街の異常。
どれも、あの黒い霧の性質とどこか似ていた。
“存在を消す力”。
世界から線を抜き取る、あの感じ。
(俺が……街を追い詰めてる?)
喉の奥が焼けるように苦しい。
「違うよ!!」
強い声が飛んだ。
振り向くと、ミリアがいた。
眉をつり上げ、目に悔しさをにじませている。
「カイのせいじゃない!」
「でも、歪みが起きたのも、あの黒い霧も――」
「“でも”じゃない!」
ミリアは一歩近づき、胸に手を当てた。
「虚無みたいなあの霧を“斬った”のは、カイでしょ。
広がりかけた歪みを止めたのもカイ。
街の人が飲み込まれる前に、何度も守ったのもカイ」
声は震えているのに、言葉は真っ直ぐだった。
「私には分かるよ」
ミリアは視線を街の方に向け、噛みしめるように続ける。
「この異常は……カイが“呼び込んでる”んじゃない。
“何か”が、カイを追いかけてきてるんだよ」
「……“何か”が……俺を?」
カイは息を呑んだ。
自分が原因ではなく、
自分を狙う“外側の何か”が、この街まで来ている――?
◆ ◆ ◆
同じ頃。
街の外れにある観測局の仮拠点で、レオンは記録装置を前に頭を押さえていた。
「……また、抜けている」
目の前の観測画面には、街の映像が映っている。
だが、異常が起きた瞬間だけ――画面の一部が“真っ白”に飛んでいた。
灯りの逆光。
影の反転。
音の巻き戻り。
無音の湖。
どれも、決定的な瞬間だけが白く塗りつぶされている。
(観測が弾かれている……?
虚無に近い何かが、観測そのものをかじっている……?)
レオンの背筋に冷たいものが走る。
「この世界にはやはり、観測局の外側――
“もっと外”が存在している……」
そう呟いた、そのとき。
教会の方向から、強い光の反応が走った。
◆ ◆ ◆
夜の街。
教会のステンドグラスが、ふっと明るく光る。
いつもの祝福の光――のはずだった。
次の瞬間、光が“黒”に反転した。
白光が押しつぶされるように消え、
影だけが爆発したように広がる。
遠目にその様子を見ていたレオンは、思わず息を止めた。
「……これは――」
教会のまわりに残った“歪みの残り香”は、
カイの作る“魔法無効領域”とは明らかに違っていた。
もっと深く、もっと冷たい。
何も生まれない底なしの穴のような感触。
観測局の術式を向けると、
反応は一瞬で“白飛び”して消えた。
(対象Kの力じゃない……
これは、別の干渉だ)
レオンはそこで、はっきりと理解した。
(外側から来ている。
カイとは別の、“もう一つの手”が)
あの黒い霧。
歪みの穴。
そして、今の教会の反転光。
どれも、カイの力と似ているようで、根っこが違う。
カイは“斬って止める側”だ。
今、街をなぞっているのは――“食い破ろうとする側”。
「……カイ」
レオンは、拳を握りしめた。
「君が狙われている理由を、私はまだ知らない。
でも――君をそのまま“差し出す”わけにはいかない」
観測局からの命令が頭をよぎる。
四十八時間以内に拘束。
できなければ、排除も許可。
(本部は、“観測できる範囲だけ”を見て判断した。
けれど――本当にそれだけで足りるのか?)
レオンの中で、疑問が膨らんでいく。
(観測できない“黒い穴”の存在を、どう扱うつもりなんだ。
あれを無視して、ただカイだけを危険だと決めつけるなんて――)
胸の奥が、強く痛んだ。
「この世界は、もう静かなままではいられない」
夜の闇が、ゆっくりと波打つ。
遠くの森のあたりで、小さなノイズの光が瞬いた。
虚無に近い“何か”が、
確かに街へ向かって近づいてきていた。




