第36話 観測局・上層の通達
――真っ白な空間に、光の点がひとつ、静かに浮かんでいた。
それは、この世界の“ある一か所”を示す印だった。
街と森。歪み。
そして――カイという青年。
光点のまわりには、無数の“窓”が浮かんでいる。
どれも、この世界の一瞬一瞬を切り取った映像だ。
歪んでいく森。
黒い霧。
境界線を斬り裂く、黒髪の少年の姿。
《地上観測ログ、更新完了》
無機質な声が、白い空間に響いた。
《歪み領域、第三段階へ移行後、強制閉鎖を確認。
閉鎖のきっかけは、対象Kによる“境界線の斬断”》
「……対象Kの斬撃が、歪みとの“繋がり”を切った」
レオン・ハーツは、ひとつの光点の前に立っていた。
街で見せる柔らかな笑みはどこにもない。
今の彼は、ただ“観測者”としての顔だけを浮かべている。
(本来なら、喜ぶべきなんだろうな。
あの“穴”は閉じられたんだから)
けれど、胸の奥は重いままだった。
(あれは、もう前までの“歪み”じゃない)
レオンの前の観測窓に、森の中心――歪みがあった場所の映像が映る。
……はずだった。
「……また、“真っ黒”だ」
窓の中央だけが、ぽっかりと黒く塗りつぶされている。
色も、線も、何もない“穴”。
まるで誰かが、その部分だけを雑に隠したかのような――
観測の“死角”。
◆ ◆ ◆
《観測局本部からの回線接続。
第二班所属レオン・ハーツ、応答せよ》
頭上に、いくつもの紋章のような光が重なって現れた。
それは、この世界の魔術ではない。
“上”からの直接回線だ。
「……レオン・ハーツ、こちらに」
《応答確認。
地上観測データの提出を確認。――重大異常と判断する》
声は複数だった。
男か女かも分からない、混ざり合った音。
観測局本部の“合議の声”だ。
《歪み領域における、魔力構造の崩れ。
世界のほつれ。
そして、対象Kによる強制閉鎖の行為》
「はい。ですが――」
レオンは言いかけて、ほんの少しだけ黙った。
(ここから先を話すのは、“観測者として”か……
それとも、“レオン”としてか)
迷いを振り払い、短く息を吐いてから続ける。
「ですが、歪みそのものの“原因”は、まだ分かっていません。
観測ログには、“何も映らない部分”が多すぎる」
《“何も映らない”とはどういう意味か》
声が、わずかに色を帯びた。
「歪みの中心部――一番奥にあるはずの場所が、観測窓では真っ黒なんです。
魔力の情報も、物質の情報も、時間の流れも、何ひとつ取れていない。
そこだけ“何もない”と記録されています」
《観測装置の故障の可能性は?》
「いいえ。
周囲の情報は全て、正常に映っています。
歪みのまわり。
カイ君の位置。
ミリアさんの魔法。
森の魔力の流れ――どれも鮮明です」
ただ、その“真ん中”だけが、まるごと抜け落ちている。
「これは、あくまで仮説ですが……」
レオンは一度、言葉を選ぶように目を伏せた。
「歪みの原因は、この世界の“外側”にある何かだと考えています」
《外側?》
「はい。
少なくとも、僕たち観測局の把握している領域よりも“さらに外側”にあるもの。
少なくとも、対象Kひとりの影響だけでは説明できません」
短い沈黙が落ちた。
白い空間の空気が、少し冷たくなる。
《レオン・ハーツ》
「……はい」
《あなたの観測ログを確認した》
合議の声が淡々と続ける。
《歪みの発生位置。広がり方。魔力の乱れ。
どれも、“対象Kの行動範囲”と強く結びついている》
「……それは、僕も否定しません。
ですが――だからと言って、“彼だけが原因だ”とは言い切れません。
実際、彼は歪みを“閉じる方向”に動いています」
《“閉じた”のではない》
合議の声が、レオンの言葉を遮った。
《対象Kは、“我々に見えない領域”に干渉した》
「……!」
《観測できない場所への干渉は、最優先の危険要素だ》
その言葉に、レオンの背筋がわずかに震えた。
(観測できない場所……
確かに、あの瞬間)
歪みの一番奥。
真っ黒な空白。
カイがそこへ斬撃を放った瞬間――
観測窓は白くフラッシュし、その前後数秒の映像ごと“消えた”。
まるで、記録そのものが切り取られたように。
《観測できる範囲だけを見れば、
最大の異常は対象Kにある》
「待ってください」
レオンは、思わず一歩踏み出していた。
「彼は、この世界を守ろうとして――」
《レオン・ハーツ》
今度の声は、さっきより冷たい。
《あなたのレポートには、“感情”の混ざり込みが認められる》
レオンの胸が、ちくりと痛んだ。
(……やはり、気づかれている)
《対象Kと長時間接触した観測者に、“情”が生まれる例は、過去にも存在する》
空間に、いくつかの映像が浮かぶ。
別の世界。
別の対象。
別の観測者たち。
笑っている者。
泣いている者。
誰かの肩に手を置いている者。
次の瞬間――映像は全て、灰色に塗りつぶされた。
《そして、観測は歪む》
淡々とした言葉。
だが、その意味は重い。
◆ ◆ ◆
「……それでも」
レオンは拳を握りしめた。
「それでも、僕は――
カイ君“だけ”が原因だとは思えません」
歪みの中心にあった、あの黒。
観測局の視界からも外れるほどの“穴”。
あれは、今まで記録されたどの異常とも違っている。
(僕たちの知らない“外側”から、何かが覗き込んでいる)
そんな感覚があった。
《感覚ではなく、データで話しなさい》
「データも、あります」
レオンは、別の観測窓を前へ呼び寄せた。
歪みが起きる直前。
カイが森へ入る前の映像だ。
「歪みの“揺れ始め”は、カイ君が到着する“十一分前”から始まっています。
彼が近づく前に、森の魔力と空間はすでに乱れ始めていた」
《……》
「つまり、歪みの“最初のきっかけ”は彼ではない。
彼は、広がった歪みに対して反応しているだけです。
そして同時に――“閉じる側”にも働いている」
レオンの声には、いつになく熱がこもっていた。
(僕は、見ていた。
彼が迷いながら、それでも誰かを守ろうと剣を振るう姿を)
「対象Kは、“外側の何か”に刃を届かせることができる。
それは確かに危険です。
けれど、この世界にとっては――
数少ない“盾”でもあるかもしれません」
《レオン・ハーツ》
合議の声が、今度ははっきりとした重さを帯びる。
《最終決定を通達する》
白い空間に、ひとつの“命令文”が浮かび上がった。
簡潔で、冷たく、逃げ道のない文章。
《対象コード“K”について――
四十八時間以内に、観測局の管理下に置くこと》
「……」
《対象が従わない場合――
下層世界の安定を最優先とし、“排除プロトコル”への移行を許可する》
その瞬間、レオンの心臓が大きく跳ねた。
「排除……?」
《繰り返す。
対象Kを四十八時間以内に拘束せよ。
不可能な場合――排除もやむなしと判断する》
白い空間には、何の感情も浮かんでいない。
それでも、言葉には重い“意志”がこもっていた。
《これは、上層合議による最終決定である》
観測局本部の声は、それ以上何も言わず――
回線は静かに途切れた。
◆ ◆ ◆
再び、白い空間に静寂が戻る。
足元には、いまだ命令文が淡く光り続けていた。
(四十八時間以内に拘束。
できなければ――排除)
観測局は、本気だ。
これ以上、下の世界の不安定化を許すつもりはない。
(……急ぎすぎじゃないか)
レオンは、ふとそんな疑問を覚えた。
(歪みの本当の“原因”はまだ見えていない。
観測できない“黒い穴”も、そのままだ。
なのに――一番最初に出てくる答えが、“カイの排除”なのか?)
観測局本部の反応は、あまりにも早かった。
まるで――最初から“そう決めていた”かのような早さで。
(上層は、本当に全てを“見えている”のか?
それとも、僕たちが知らない“別の事情”があるのか)
そんな小さな違和感が、胸の奥でくすぶり始める。
◆ ◆ ◆
レオンは、ゆっくり視線を上げた。
別の観測窓には、カイの姿が映っている。
ベッドの端に座り、眠れずに夜空を見つめる青年。
隣には、心配そうに寄り添うミリア。
ふたりの表情の細かな揺れまで、窓ははっきり映し出していた。
「……」
胸の奥が、じわりと痛む。
観測者としてだけ見れば、答えは簡単だ。
“もっとも危険な因子”を排除する。
世界の安定のために。
(それでも――)
レオンは拳を強く握りしめた。
(歪みを“閉じた”のは、間違いなく彼だ)
観測局でさえ触れられない“外側”の何かに、
刃を届かせた存在。
(もし、あの“外側”がまた侵入してきたら……
それを止められる者は、他にいるのか?)
視線を、黒い空白の窓へと移す。
そこには、真っ黒な穴だけがある。
情報も、色も、何ひとつ映っていない。
(観測できない“何か”が、この世界に手を伸ばしている。
……そして、カイ君だけが、それに斬りかかれた)
観測局にとっては、それは大きな“危険”だ。
だが同時に――“希望”でもあるはずだ。
(彼を守ろうとすれば、僕は観測局とぶつかることになる)
観測局は、レオンにとって“居場所”だった。
存在意義を与えてくれた場所。
だが、その観測局が今――
ひとりの青年に「消えてもらってもいい」と言っている。
「……どうして、こんな役目が俺なんだろうな」
誰にともなく呟き、レオンは目を閉じた。
胸の中に生まれている感情に、名前をつけるなら――
それはきっと、“情”だ。
観測者としては許されない揺らぎ。
それでも。
「俺は――まだ、決めない」
レオンは、ゆっくり目を開けた。
観測窓の中で、カイが静かに息をしている。
迷いながらも、誰かを守るために立とうとしている青年。
「カイ……」
レオンは、ぎゅっと拳を握りしめた。
「本当に君が、この世界を壊す“原因”なのか?
それとも――」
視線を、真っ黒な穴へと向ける。
「俺たちでさえ知らない、“もっと外側の何か”なのか」
白い観測空間の中で、
レオン・ハーツはただひとり、静かに立ち尽くしていた。




