第35話 歪み暴走
翌日――朝から、空気がおかしかった。
風はないのに、葉っぱだけが逆向きに揺れる。
いつもなら聞こえる鳥の声も、今日は一度も聞こえない。
目には見えないけれど、魔力の流れがざわざわと落ち着かずに動いている。
その違和感は、カイやミリアだけじゃなく、
ふだん魔力なんて気にしない街の人たちでさえ気づくほどだった。
そして――昼前。
森のいちばん奥で、“それ”は起きた。
◆ ◆ ◆
「カイ!! 森が……森が変になってる!!」
慌てた息を切らしながら、ミリアが飛び込んできた。
その声を聞いた時には、
カイの胸の警報はもう鳴りっぱなしだった。
(……やっぱり来たか)
昨日、レオンから聞かされた“提案”が頭をよぎる。
「行くぞ、ミリア!」
「うん!」
二人は森へと駆け出した。
森の入口が近づくほど、世界の歪みははっきりしていく。
木々の影が流れを逆にして動き、
地面の模様が、浮き上がった絵みたいに見える。
重なっているはずの世界の層が、ぐちゃぐちゃにずれていた。
「カイ! 奥から……何か出てきてる!」
「分かってる! 急ぐ!」
◆ ◆ ◆
森の最奥にたどり着いた瞬間、二人は息を呑んだ。
そこにあったのは、前に見たような“小さな穴”ではない。
空間そのものが割れて、むき出しになった“傷口”だった。
「……うそ……」
「これは……でかすぎる……」
黒い裂け目は、直径五メートルほどもある。
その中では、形の分からない“何か”が、ぐるぐると渦を巻いていた。
裂け目のまわりの木々は、中心へ引きずられるように曲がっている。
まるで世界の重さの向きが、そこに向かって傾いているみたいだった。
さらに、厄介なことに――
「目、回りそう……!」
ミリアが額を押さえた。
裂け目の縁からあふれ出す揺らぎが、
視界そのものを揺らして、上下左右の感覚をぐちゃぐちゃにしてくる。
(これは……まずい)
「ミリア、あんまり近づくな!」
「でも……歪みが、森全体に広がってる!」
その言葉の直後だった。
足元の草の茂みが、“音もなく”消えた。
黒い霧のようなものが地面に垂れ、
触れた部分の存在を、跡形もなく“塗りつぶして”いく。
焼けたわけでも、枯れたわけでもない。
そこにあったこと自体が、最初からなかったみたいに消えていく。
「これ……魔法じゃない。
世界そのものを、“書き換えてる”……!」
ミリアの声が震えた。
カイの背中にも冷たい感覚が走る。
(感じる……この気配……
昨日までの歪みとも違う。もっと深い……もっと“外側”の気配だ)
裂け目の奥から、
“何か”がじっとこちらを見ていた。
◆ ◆ ◆
「来る!」
ミリアの叫びと同時に、黒い霧が腕の形になって伸びてきた。
カイは反射的に剣を構える。
「《斬》!」
目に見えない衝撃が走り、霧の腕をはじき飛ばす。
だが霧はすぐに集まり、二本、四本、八本……と増えていく。
触手みたいに分かれて、何本もカイたちへ迫ってきた。
「き、気持ち悪っ!!」
「ミリア、下がってろ!」
カイは一歩前へ出て、剣を振るう。
斬った瞬間、空間そのものが“きしむ”ような違和感が走った。
霧に触れた刃の周りだけ、音も色も消えたみたいに“無”になる。
(この感覚……
俺の《斬》が“消える斬撃”になった時と、同じだ)
カイの斬撃は魔法ではない。
けれど、霧もまた魔法ではない。
どちらも、この世界の外側の性質をまとっている。
つまり――
“同じ土俵にいる存在同士”だ。
◆ ◆ ◆
「カイ! 右側、広がってる!」
ミリアの声に振り向く。
黒いノイズが、森の一角を丸ごと飲み込もうとしていた。
霧に触れた木々は、
幹も葉も影も、すべて“存在した痕跡ごと”消されていく。
時間も、音も、光も、形も――
全部まとめて「なかったこと」にされていく。
(させるかよ……!)
カイは深く息を吸い、剣を頭上に掲げた。
「――《斬》ッ!!」
全力の一撃。
ゴーレムを一刀で沈めた時よりも、さらに鋭く、深い斬撃。
白い閃光が走り、
黒い侵食部分ごと、歪みの“縁”を断ち切る。
世界全体が、一瞬だけ白く光った。
ノイズがぱたりと消え、霧の触手がばらばらに砕けて消える。
ミリアが息を呑んだ。
「い、今の……すご……!」
しかし――
裂け目そのものは、
まったく閉じる気配がなかった。
むしろ――
「……嫌な感じがする」
さっきよりも、穴の奥にある“何か”の輪郭がはっきりしてきている。
黒い霧の向こう側に、
“目のようなもの”
“形になりかけた何か”
そして、この世界とは違う場所から覗き込んでくる“意志”。
それらが混ざり合い、確かにこちらへ近づいてきていた。
◆ ◆ ◆
「カイ、これ……今までと全然違う……!」
ミリアの声が裏返る。
「昨日までの歪みとは、段違いだよ!
これはもう、“この世界の中の異常”じゃない……!」
「じゃあ、なんなんだよ!」
「“外側の意志”!」
その言葉とほとんど同時に――
裂け目の奥から、低い“何か”が響いてきた。
聞こえないはずなのに、聞こえる音。
耳ではなく、心臓を直接つかまれるような圧力。
――■■■■■■■……。
意味は分からない。
けれど、たったひとつだけ確信できた。
(今こいつは、俺を“見ている”)
今までの歪みよりも、もっと上から。
もっと遠くから。
もっと冷たく――世界ごと見下ろす目で。
(レオンでさえ、ここには届いてない……)
「カイッ! また来る!!」
裂け目から、黒い影の触手が何本も飛び出してくる。
さっきの霧よりも濃く、重い。
一本一本に、はっきりした“意志”のようなものが宿っていた。
「……上書きされる前に、全部斬る!!」
カイは一歩踏み込み、剣を振るい続けた。
《斬》の光が何度も何度も走るたび、
影の触手が“存在ごと”消えていく。
だが、斬っても斬っても湧き出してくる。
ミリアの顔色が、どんどん青くなっていく。
「カイ……!
これ……もう私たちの力だけじゃ……!」
その時だった。
森の奥で風が揺れた。
静かな足音が、歪みの気配を裂くように近づいてくる。
「……興味深い進行ですね」
聞き慣れた声。
だが、今はその余裕が少しだけ崩れていた。
レオン・ハーツが姿を見せた。
いつものように落ち着いた顔をしているが、
その目の奥にははっきりと“焦り”があった。
「対象K……
これは、あなたの想定外でしょう」
「当たり前だ!」
「そして――我々観測局にとっても想定外です」
レオンは裂け目を見つめたまま、静かに言う。
「これはもう、“歪み”ではありません。
“外側そのもの”が、こちらに触ろうとしている」
「そんなの、来させるかよ!!」
カイは剣を握り直した。
裂け目の奥で、“目”のような何かが、まっすぐカイを見ている。
この世界のものではない視線。
観測のさらに奥にいる、冷たい何かの気配。
(――切るしかない)
世界の外側だろうと関係ない。
ここを抜けられたら、街ごと飲まれる。
「ミリア、俺の後ろに!」
「うん……!」
カイは裂け目の“中心”をにらんだ。
そこには――
世界と世界の境目のような、一本の線がはっきり通っていた。
(見える……
昨日より、もっとはっきり……)
この線を斬れば、
敵そのものじゃなく、“繋がり”を断ち切れる。
「――いくぞ!!」
カイは大きく剣を振りかぶる。
白い光が刃に集まる。
世界の空気が、びりっと張りつめる。
裂け目の向こう側で、“影の意志”が揺れた。
「《――斬》ッ!!」
光の線が一直線に走り、
裂け目の中心を正確に切り裂く。
空間が悲鳴をあげるように震え、
黒い穴が激しく波打ち始めた。
周囲の霧がバラバラに崩れ、
影の触手が溶けて消え、
“目”の存在も、ぼやけて消えていく。
最後に、小さな黒点がひとつだけ残り――
それすらも、薄い煙のように消えた。
森が、静かになった。
◆ ◆ ◆
風が吹いた。
葉が揺れ、
少し間を置いて、鳥の鳴き声が一つ聞こえた。
世界が、元の位置に戻っていく。
カイはその場に膝をつき、荒い息を吐いた。
「カイ!! 大丈夫!?」
「……なんとか、な」
ミリアが慌てて支える。
レオンがゆっくり歩み寄ってきた。
その顔には、今まで見たことのない、重い影が落ちていた。
「……カイさん」
さっきまでの「対象K」という呼び方をやめ、
レオンは初めて“名前”で呼んだ。
「あなたは今、“外側からの接続”を一方的に断ち切りました」
「それが……どうした」
「その行為は、この世界では“ありえないこと”です。
観測局の基準で言えば――
あなたは、最優先で見張られる存在になりました」
「……は?」
「簡単に言えば――
今の一撃で、あなたは観測局にとって“無視できない存在”になった、ということです」
レオンの声には、恐怖と興奮と焦りが混じっていた。
「予想を超えました。
あなたは、本当に“世界の外側”を斬ってしまった」
カイはよろめきながらも立ち上がり、剣を握り直す。
「だったら――
何度でも斬るだけだ」
ミリアが、強く、迷いなく頷いた。
レオンは、その二人の姿を見て、
目を伏せ、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「……だから私は、あなたを連れていきたいのだ」
その本音を聞いた者は、
森の中には誰ひとりいなかった。




