第31話 侵食するノイズ
森は、見た目だけならいつも通りだった。
けれど、カイの目には“違って”見えていた。
木の輪郭が、少しだけ揺れて見える。
光の反射が、どこか不自然に乱れている。
風もないのに、草が一瞬だけ逆向きに揺れるときがある。
(……また、始まってる)
カイは深呼吸をし、剣を手に森の奥へ向かった。
歪みが起きた場所は、街から離れた森の一番奥だ。
本来なら、鳥の声が聞こえ、太陽の光が差し込む静かな場所。
だが今は――
鳥の声も、虫の音も、何一つ聞こえなかった。
ただ、重たい“無音”だけが広がっている。
まるで、世界そのものが息を止めているようだった。
◆ ◆ ◆
(あの“黒い影”……教会で見えた穴みたいな影。
あれと同じ気配が、ここに向かうほど強くなってる)
教会で光をはじいたとき、カイの周りに生まれた小さな影。
あの気味の悪い感覚が、森の奥へ進むにつれて濃くなっていく。
木の幹の近くで、空気がザザッと乱れた。
壊れた映像みたいな、ざらざらした揺れ。
「……ここだ」
カイは足を止めた。
前に“歪み”と対峙した場所。
あの黒い裂け目が開いた、まさにその地点だ。
今は穴そのものは見えない。
ただ、目の前の空間が、薄い膜のように細かく震えている。
透明なフィルムを指でこすったときのように、
見えない層がいくつも重なって、ゆらゆらと揺れていた。
(……ひどくなってる。
前よりも深くて、広い)
風は吹いていないのに、草の葉だけが“逆向き”にそよぐ。
石が落ちてないはずの場所から、乾いた小さな音が跳ねる。
地面の影が、ほんの一瞬だけ“ずれて”見える。
世界の形が、少しずつずれている。
「……まだ終わってないよな」
カイは小さく呟き、剣を抜いた。
揺れている空間へ、そっと剣先を差し出す。
(手応えが……ない)
ただ空気を切っただけのような感覚。
だが、剣先が通ったところから、空間の揺れが急に激しくなる。
見えない膜に傷が入ったように、ザザッと乱れが走る。
「世界が……薄い布みたいだ」
思わず口から言葉がこぼれた。
本当にそう見えたのだ。
この世界が、一枚の布でできていて。
その布の目が、ほつれ始めているように。
◆ ◆ ◆
そのとき――
「カイ!」
背後から枝を踏む音と共に、聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、息を切らして走ってきたミリアがいた。
「ひとりで来るなって、何回言ったら分かるの!?」
「悪かった」
「“悪かった”で済むなら、観測局なんて存在しないからね!」
よく分からない例えに、カイは思わず吹き出す。
「そこで観測局が出てくるのかよ」
「出るよ!
だって……怖いんだよ……」
ミリアの声は、少し震えていた。
彼女はカイのそばまで来ると、剣先のあたりに漂う“おかしな空気”を感じ取り、顔をしかめた。
「……何これ。
空気が重いとかじゃなくて、“押されてる”感じがする」
「揺れてるのは見えないのか?」
「ううん。私には見えない。
でも……分かる。
胸の奥がぎゅっと苦しくなって――
“これはおかしい”って、体が言ってる」
ミリアは、目には見えないものを、感覚で捉えていた。
カイは剣を少し持ち上げ、周囲を指さす。
「たぶん……そのうち、ここが“裂ける”。
前みたいな歪みが、また起きる」
ミリアの顔がこわばる。
「……やだよ。
また街の人たちが巻き込まれるのは、もう見たくない……」
「だから、その前に止めたい」
カイは剣を握りしめる。
指先に力がこもる。
「たとえ誰かに“観察されてる”としても。
レオンが上から見てようと――
決めるのは俺だ」
ミリアは、じっとカイを見つめた。
揺れていない。
その目には、決意がはっきりと宿っていた。
「じゃあ、私も一緒にやる。
だって、カイは……私にとって大事な人だから」
その言葉に、カイの胸がほんの少し、軽くなる。
(……俺は、一人じゃない)
◆ ◆ ◆
その瞬間――
森の空気が、低く震えた。
揺らぎが強まり、
地面の奥から、低い音が響いてくる。
ザ……ザザザ……
(また……何かが動こうとしている)
カイは反射的に剣を構えた。
ミリアも杖を握り直し、周囲を見回す。
視界の端を、黒い線のようなものが走った。
細く短い影の欠片が、何度もちらつく。
三回、四回――
まるで、この世界の“縫い目”がほどけているように。
現実の裏側から、何かがにじみ出てこようとしていた。
「カイ……!」
「来る」
空気の圧力が変わる。
そのとき――
「……興味深い流れですね」
風のように静かな声が、上から降ってきた。
二人が振り向くと、
高い枝の上にローブ姿の男が立っていた。
レオン・ハーツ。
相変わらず、人間離れした落ち着いた目。
少しだけ微笑んでいるが、その笑みには温度がない。
「歪みが、再び動き出している。
カイ君……やはりあなたが側にいると、世界は反応するようですね」
それは、実験結果を読み上げるような口調だった。
ミリアが怒りを込めて叫ぶ。
「レオン!
今の状況を、そんなふうに“面白がってる”の!?」
「誤解しないでください」
レオンは、あくまで落ち着いた声で答える。
「私はただ“見ている”だけです。
この世界がどう揺れて、
カイ君がどんな選択をするのか」
「……その言い方、やめろ」
カイが低く言う。
レオンは少しだけ首をかしげた。
「あなた自身が言いました。
“選ぶのは自分だ”と。
それを確認しているだけですよ」
「……!」
胸の奥で、何かがざわつく。
レオンの視線は冷静だ。
だが、どこか以前より“近く”なっているように感じた。
(あいつ……変わってきてる?)
ほんのわずかに、レオンの目の奥に熱のようなものが見えた気がした。
観察者の冷たさだけではない、別の何か。
(でも……悪いけど、観測なんてどうでもいい)
「ミリア」
カイはまっすぐ前を向いたまま言う。
「俺たちで、この歪みを止める」
「うん!」
ミリアも力強く頷く。
カイは剣を構え直し、揺れる空間を見据えた。
(世界がどうなろうと。
レオンがどう見ようと。
――俺は、俺の選択をする)
剣先が、揺らぐ世界の方へ静かに向けられる。
黒いノイズがじわじわと侵食していく中で、
カイの決意だけが、くっきりと燃えていた。




