第26話 癒えない傷
森の朝は、冷たく澄んでいた。
歪みの騒動から数日。
不安はまだ街から消えていない。
魔獣の目撃情報は増え、ギルドも見回りを強化していた。
カイとミリアも、その巡回のひとつを任されていた。
濃い緑の続く森の道を歩いていると、耳に不穏な気配が引っかかる。
「……来てる」
「うん。三匹。小さいけど、ちょっと荒れてるね」
ミリアが指さした先で、茂みがガサリと揺れた。
低い唸り声。
赤く光る目。
小型の魔獣――ウルフォス。
歪みの影響か、動きは少し鈍い。だが、目だけは鋭くギラついていた。
「来るよ、カイ!」
「任せろ!」
三匹が一斉に飛びかかってくる。
カイは一歩前に出て、剣を横に薙いだ。
「《斬》!」
空気が裂ける。
魔力をまとわないはずの剣筋が、目に見えない衝撃波となって走り、ウルフォスたちの体勢をまとめて吹き飛ばした。
土埃がふわりと舞い上がる。
「あいかわらず、反則みたいな技だよね、それ……!」
「もう慣れたよ」
カイが息を吐いた、そのとき――
背後から、重い唸り声。
「……っ!」
振り向いたが、わずかに遅い。
別のウルフォスが高く跳び、カイへ一直線に飛びかかってきていた。
(速い――!)
避けきれず、肩に鋭い爪がかすった。
肉が裂け、血が飛ぶ。
「カイ!!」
ミリアが叫び、駆け寄る。
すぐに手を翳す。
「《ライト・ヒール》!!」
柔らかな光が、傷口へ向かって伸びていく。
しかし――
ふっ。
傷に触れる寸前で、光は“弾かれたように”消えた。
「……っ、また……?」
ミリアの顔が苦しげにゆがむ。
「どうして……どうして届かないの……!」
「ミリア、落ち着け。浅い傷だ」
カイは笑おうとするが、うまく笑えなかった。
「浅いとか、そういう問題じゃないの!
治癒魔法が“届かない”なんて、おかしいよ……!」
ミリアの声は震えていた。
もともとカイには治癒魔法が効きづらかった。
だがここ数日、特に“弾かれる距離”がはっきり伸びている。
魔法使いのミリアにとって、それは強烈な無力感につながっていた。
「ほんと、この世界のルールに嫌われてるよね、カイは……」
「俺のほうが嫌ってるのかもな」
冗談のつもりで言ったが、空気は軽くならない。
「ダメだよ、そういうこと言わないで……」
ミリアの目がうるんだ。
「包帯は持ってきてるから。戻ったらちゃんと薬草で手当てするからね!」
「頼りにしてるよ、先生」
「もう……!」
怒っているようで、泣きそうにも見える顔。
どちらとも言い切れない表情だった。
カイは目を伏せる。
(結局、守られてばっかりだな……俺)
街でも、森でも。
何かあるたび、真っ先に駆け寄ってくるのはミリアだ。
(なのに俺は……ミリアを守れない)
歪みが発生したあの日。
ミリアの治癒魔法は、カイに触れることさえできなかった。
彼女が必死に伸ばした手も、祈るように放った光も――
何一つ、ちゃんと受け止められなかった。
その事実が、ずっと心に刺さったままだ。
◆ ◆ ◆
包帯を巻き終え、なんとか歩けるようになった頃。
二人は森の奥へ続く道の前で立ち止まった。
森の奥――
この前、“歪み”が起きた場所だ。
近づくほど、空気は重く湿っていき、どこか“ずれている”感じがする。
「……音、聞こえる?」
ミリアが耳に手をあてる。
「また、“きしむ音”」
「ああ。かすかだけど……聞こえる」
カイの耳にも、その音は届いていた。
金属を無理やりねじったような、不快なきしみ。
森には似合わない、世界の奥底が悲鳴をあげるような音。
(この前の歪み……完全には消えてない)
あの日の光景が頭に浮かぶ。
黒い裂け目。
暴走する魔獣。
乱れた魔法。
ぐにゃりと反転したような空間。
あのとき、レオンハーツはまだ街にいなかった――はずだ。
(……いや。本当に、いなかったか?)
ふと、違和感が胸をよぎる。
レオンが街に現れる少し前、空に“ノイズのようなざらつき”が走った。
あれは歪みの余波なのか、それとも――
“別の何か”が降りてきた合図だったのか。
「カイ……?」
ミリアが心配そうに覗き込む。
「大丈夫?」
「ああ。ちょっと考え事してただけ」
本当は大丈夫じゃない。
だが、ミリアにはあまり心配をかけたくなかった。
(少なくとも、この街の人たちくらいは俺が守らなきゃ)
魔法が効かなくても。
怪我が治りづらくても。
世界に嫌われていたとしても。
(ミリアを守れるのは、俺しかいない)
歪みの方角から、再び“きしみ”が響く。
森の奥の闇が、心臓の脈のようにわずかに動いた気がした。
何かが――呼んでいる。
◆ ◆ ◆
その頃。
森の上空、誰にも見えない高さで、一つの影が漂っていた。
白銀の髪。
深い金の瞳。
観測者――レオンハーツ。
カイたちの戦闘も、治癒拒絶の様子も、先ほどからすべて“上から”見ていた。
(やはり……面白い)
レオンの口元がわずかに上がる。
(対象“K”。
君の“逸脱”は、確実に進んでいる)
その瞳は冷たい。
だが同時に、強い好奇心の光も宿していた。
(歪みも、まだ閉じていない。
君と世界の“境界”が薄くなっている証拠だ)
レオンハーツはゆっくりと旋回し、
森に漂う“ゆらぎ”を、ただ静かに見続ける。
(さて――次はどんな揺らぎを見せてくれる?)
金色の瞳が細められる。
(君の選択が、世界をどう壊し、どう繋ぎ直すのか。
私は、それを見たい)
風がローブを揺らし、レオンの姿は木々の影へ溶けていった。
◆ ◆ ◆
地上では。
カイが傷口を押さえながら、森の奥を見つめていた。
肩の痛みは消えない。
治癒魔法に拒まれた傷だけが、生々しく残っている。
だが、それ以上に――胸の奥の痛みが厄介だった。
(癒えないのは……傷だけじゃない)
この街にも、この世界にも、どこか馴染めていない。
そんな感覚が、心の深いところでずっと疼いている。
「カイ……帰ろう。今日はもう、危ないよ」
「ああ……戻ろう」
ミリアに促され、街へ戻る道を歩き出す。
だが、カイは一度だけ振り返った。
森の奥――歪みが現れた場所。
闇の色が、ほんの一瞬だけ、不自然に揺れた気がした。
(……まだ終わってない)
根拠はない。
それでも、直感だけははっきりと告げていた。
(続きが来る)
それだけは、確信に近かった。




