第25話 レオンの実験
夕暮れの風が町外れの草地を渡り、木々の枝を揺らしていた。
空は群青に沈みつつあり、地平線にはまだ少しだけ橙色が残っている。
カイ、ミリア、レオン。
三人が作る三角形の距離だけが、周りの世界から切り離されたように静かだった。
「実験って……また面倒なことになりそうだね」
ミリアが不安そうにカイへささやく。
レオンの前では、自然と声が小さくなる。
この男に余計なことを悟られたくない――そんな本能的な警戒だった。
「危険なことはしませんよ」
レオンは柔らかく笑った。
丁寧で紳士的な表情。だが、どこか“薄い”。
「少しだけ、“観測”させていただくだけです」
「観測……?」
カイが聞き返すと、レオンの視線がゆっくりと向けられた。
その目は、人を見るというより“中身の構造”だけを見ているような冷たさがある。
「魔法は、この世界の“法則”を借りる技術です。
でも、ごくまれに――その法則から“こぼれ落ちた存在”が生まれる」
レオンは静かに続ける。
「君のような、ね」
短い一言なのに、その響きはナイフのように無機質だった。
ミリアがカイの袖をぎゅっと掴む。
細い指先がわずかに震えている。
「……何をすればいい?」
カイは覚悟を決めて尋ねた。
「簡単です。
私が魔法を放し、それが“どう消えるか”“どう歪むか”を見る。
することは、それだけですよ」
レオンは優しい声で言う。
だが、その奥にははっきりと“知りたい”という熱があった。
ただの好奇心ではない。
観測者特有の、対象を丸ごと理解しようとする危うい衝動だ。
◆ ◆ ◆
レオンは杖を持ち、地面にコツンと先端をついた。
杖の先に淡い光が集まり、空気がかすかに震える。
足元の草が、下から押し上げられるようにざわめいた。
「まずは、基礎的なところから見ていきましょう。
――《エーテル・スキャン》」
ふわっと光が弾ける。
細い光の糸が無数に伸び、蜘蛛の巣のように広がっていく。
その糸が、カイの周囲へと流れ込んでいった。
一筋、また一筋。
カイに近づいた瞬間――
光糸はぷつんと音もなく切れ、消えた。
まるで「存在自体を拒否された」かのように。
「……見事ですね」
レオンが小さく息を漏らす。
その声には、わずかに楽しそうな色さえあった。
「魔法を“受け止めて消す”のではなく、
“触れる前に存在を否定する”……。
やはり、普通の“無効”ではありません」
「褒められてる気はしないな」
カイは苦笑するが、胸の奥はどんどん重くなっていく。
光の糸は、カイの周囲数十センチほどの場所で必ず弾かれる。
そこに“見えない壁”があるかのように。
(やっぱり……前より範囲が広くなってる気がする)
ミリアも、最近の実験で何度も同じことを口にしていた。
「それだけなら、まだ分かりやすいのですが――問題は“ここから”です」
レオンが言うと、光の糸の一本が、カイの背後を回り込むように動いた。
カイに触れてはいない。だが――
バチッ!
空間がねじれたような音を立て、光が“ぐにゃり”と曲がって弾け飛んだ。
「っ……!」
ミリアが思わず後ずさる。
周囲の空気がゆらぎ、草がざわざわと波打った。
小さな雷が落ちたような感覚。
「今の、見えましたね? ミリアさん」
レオンが静かに問う。
「……魔法が、カイに近づいただけで壊れた。
構造そのものが崩れた……」
「そう。この現象です」
レオンは満足げにうなずく。
「カイ君の周囲の“世界”だけ、
他と違うルールで動いている」
「違う……ルール?」
「ええ。
この世界の法則から、彼だけが“半歩外にずれている”。
だから魔法は、正しく反応できない。
世界が彼を、うまく認識できないのです」
ぞくり。
その説明が、カイの背筋を冷たく撫でた。
(俺は……この世界に、ちゃんと“属して”いない?)
自分の存在そのものが“異物”だと宣告されたようで、胸が締めつけられる。
「歪みが街に現れたこと。
森の魔獣が暴走したこと。
そのどちらも……君とまったく無関係とは、言い切れません」
「……それって、つまり――」
「もちろん、君が“直接の原因”とは限りませんよ」
レオンは軽く首を振る。
「ただ、“揺らぎの中心”に立っている可能性は高い」
ミリアの声が震える。
「そんな……カイが……?」
「恐がらなくていいですよ」
レオンの声は優しい。だが、その優しさはどこか上からだった。
「私は君を傷つけるつもりはありません。
ただ、君という存在が“どう世界を変えていくのか”――
それを知りたいだけです」
「人を、実験材料みたいに言うな」
カイが低く言い返す。
一瞬、レオンの瞳から色が抜けた。
本当に一瞬だけ、目が“無”になったように見えた。
「……失礼」
形だけの言葉を告げ、またゆっくりと笑顔を作る。
「ですが、私は“観る”ことしか許されていない立場でしてね」
その声は静かだった。
静かすぎて、逆に底が見えない。
「どう動き、何を選び、何を守るのか。
君の選択は、この世界にとって――とても大きな意味を持つでしょう」
「大きな……意味?」
レオンは、ふっと遠くを見る。
視線は、夕暮れの先――まるで“この世界の外側”を見ているようだった。
「君は、ただの人間ではない。
“この世界にとって”特別な存在です」
その言葉の重さを、カイはまだ完全には理解できない。
ただひとつだけ、はっきりしていた。
(やっぱりこいつは、普通じゃない)
この男は、“測りに来た”。
そして自分は今、“測られている”。
◆ ◆ ◆
ひと通りの魔法を試し終えると、レオンは杖を下ろした。
「素晴らしい結果でした。ご協力に感謝します、カイ君」
どこか満足げな微笑み。
「今後も、観測は続けます。
また力を貸してもらうこともあるでしょう」
「勝手に決めないでよ」
ミリアが思わず声を荒げた。
その目には怒りが宿っている。
「カイは……カイは、あんたの実験道具じゃない!」
レオンはその怒りを受けても、表情を崩さない。
「もちろん。
私にとって彼は“興味深い存在”であり、
世界にとっては“重要な観測対象”なのです」
「観測対象……」
カイは小さくため息をつき、レオンを見据える。
「……レオン。
あんたは一体、何者なんだ?」
レオンは答えなかった。
ただ、静かに微笑むだけ。
その笑顔は、“王都の講師”のものではない。
(あの笑い方……あの“観測局の男”と同じだ)
胸のざわめきが強くなり、空気が重く感じられる。
「また会いましょう、カイ君。
君の“選択”を楽しみにしています」
そう言って、レオンは夕闇の中へ歩き去っていく。
風のように。
影のように。
自然な足取りなのに、その背中だけが世界から浮いて見えた。
◆ ◆ ◆
レオンの姿が完全に見えなくなってから、
ミリアはようやく大きく息を吐いた。
「……カイ、本当に気をつけて。
あの人、絶対ただの講師じゃない」
「分かってる」
「観測って何?
どうして、世界がカイの周りだけ歪むの……?」
ミリアの声は震え、そのまま夕暮れの静けさに溶けていく。
カイは、答えを持っていない。
(でも――分かる。
俺の中で、“何か”が目を覚まそうとしてる)
胸の奥で、正体の分からない何かがゆっくりと蠢いていた。
その夜。
カイとレオンの距離は、確かに一歩近づいた。
そして世界の揺らぎもまた、ひとつ大きくなったのだった。




