第2話 霧の森にて
深い霧が森を覆っていた。
本当は昼のはずなのに、空はどんよりと曇り、木々の影は溶け合うように伸びている。
足元すらはっきり見えない薄暗さが、森全体に沈んでいた。
その中心に――ひとりの少年が倒れていた。
髪は、銀色に近い黒。
着ているのは、夜空の一部を切り取って縫い合わせたような黒い衣。光をほとんど反射せず、霧よりもなお深い暗さをたたえている。
布の縁には、見たことのない古い模様のような線が刻まれており、この世界の職人が作ったものには見えなかった。
そして、もっと異様なのは――少年の周囲だけ、草木が灰のように崩れ、“跡形もなく消えている”ことだった。
円を描くように、その場所だけ地面がむき出しになっている。
まるで世界の一部が、そこだけ丸ごと欠けてしまったようだった。
風も、森の気配もあるはずなのに、その範囲だけがぽっかりと“無”になっている。
***
「――誰か、いるの?」
霧の向こうから、女性の声がした。
赤い髪を揺らしながら、松明を掲げて進んでくる女性。
腰には細身の刀。松明の火を通して、かすかに炎の魔力がにじんでいる。
火の魔法を得意とする女魔導士――ミリア。
「……なに、この感じ」
彼女は足元の灰をつまみ上げた。だが、指先に触れたとたんさらりと崩れ、空気に溶けるように消えてしまう。
「魔法で焼けた跡……とも違うわね。これは……」
言い切る前に、ミリアの胸の奥がざわりと粟立った。
どの属性の魔力とも違う。世界から“音”だけを一瞬だけ抜き取られたような、不自然な空白感。
ミリアは警戒しながら、灰の中心――少年に近づいた。
「……人? こんな場所に、どうして」
しゃがみ込み、そっと声をかける。
「……ねえ、聞こえる? 生きてる?」
その瞬間、少年のまぶたがかすかに震え、ゆっくりと開いた。
闇のように深いのに、不思議と光を宿している瞳が、真っ直ぐにミリアをとらえる。
「……ここは……どこだ……?」
声は弱々しい。けれど、耳から離れない、不思議な響きを持っていた。
「意識はあるのね。よかった。
でも今はあまり動かないほうがいいわ。この辺り、魔獣がいるかもしれないから」
「……まじゅう?」
少年は、その言葉の意味すら分かっていないように、首をかしげた。
「きみ、名前は?」
「……わからない」
「え?」
「なにも……思い出せないんだ」
ミリアの表情が変わる。
同情だけではない。危険かもしれないという警戒と、それでも放っておけないという直感が入り混じった顔だった。
(……危ない匂いはする。でも、それだけじゃない……)
自分でも説明できない矛盾を抱えながら、それでもミリアの判断は早い。
「よし、決めた。うちに来なさい」
「……え?」
「こんな霧だらけの森に置いていけるわけないでしょ。
歩けるなら、一緒に出るわよ」
少年は、しばらくミリアをじっと見つめた。
彼女の言葉の裏を探るように。
そして――小さくうなずいた。
ミリアは、ほっと息をつく。
その瞬間、少年の身体から“黒い光”が、かすかににじんだ。
炎とも、普通の魔力とも違う。世界の一部を塗りつぶしてしまいそうな黒。
ミリアはそれに気づかない。
霧と、松明の炎の揺らめきに紛れてしまうほど小さな異変だった。
「歩ける? 支えてあげるから」
少年は差し出された手を掴む。
温かい、人の体温を確かめるように。
黒と赤。
反対の色が触れ合った瞬間、二人の運命は、静かに結びつき始めていた。
***
三年が経った。
少年は、記憶を失ったままミリアの家で暮らしていた。
薪割り、井戸水汲み、市場への用事。そんな日々の雑用をこなしながら、表面上は穏やかな日常を送っている。
しかし――その裏側で。
少年はずっと、“記憶の痛み”と呼ぶ謎の症状に苦しめられていた。
胸の奥が焼けつくように痛む。
視界が黒く染まり、周囲の景色がゆがんで見える。
身体の内側で、形の分からない“何か”が動き回っているような感覚。
治癒師に診てもらっても、薬草を試しても、原因は分からない。
そして、その痛みに襲われるたび――
少年の胸の奥で、「声」が聞こえた。
誰かの声だ。
しかし少年は、その声の主も、その言葉の意味も理解できない。
***
そして今日。
その声は、これまででいちばんはっきりと響いた。
薪を抱えて家へ戻る途中、突然、胸に強烈な痛みが走る。
少年は耐えきれず、その場に膝をついた。
(……また、これか……)
腕から薪がこぼれ落ち、地面に散らばる。
まわりの人の声も、生活の物音も遠ざかり、世界が急に静かになる。
代わりに――胸の奥から、あの声が満ちてきた。
『――選べ』
男とも女ともつかない、歪んだ声。
『お前が、何を守るのか。すべては、そこから始まる』
(……誰だ、お前……)
少年は頭を抱え、歯を食いしばる。
『忘れるな。お前は“選ばされた”のではない。――“自分で選んだ”のだ』
(選んだ……? 俺が? 何を?)
胸の奥にある“何か”が、封じられたままきしむように脈打つ。
破裂しそうなほどの熱が、そこに集まっていく。
――霧の森。
――消えていた草木。
――こぼれた黒い光。
――そして、ミリアが差し伸べてくれたあの手。
(俺は……なぜ、ここにいる……?)
今まで意識して避けてきた疑問が、はっきりとした形を持ち始める。
視界が、真っ黒に染まった。
声が低くささやく。
『さあ――物語を、再開しよう』
その声の主が“何者”なのか。
少年はまだ知らない。




