第16話 歪みの奥より現れる影
森の奥――誰も足を踏み入れたことのない領域に、異様な静けさが広がっていた。
鳥も虫もいない。風までもが音を失い、世界全体が息を潜めているように感じられる。
一歩進むごとに土の踏み心地が鈍くなり、木々の輪郭がゆらりと滲んでいく。
ミリアが剣を構え、震える声でカイに問いかける。
「……カイ、“見えてる”んだよね?」
「ああ。昨日より、ずっとはっきりと」
カイの目に映るのは、彼にしか視認できない“黒い裂け目”。
世界の皮膚を破り、その奥から何かがこちらを覗き込んでいる――そんな不快な気配。
昨日よりも確実に広がっていた。
このまま放置すれば、森だけでなく街ごと呑み込むだろう、そんな確信があった。
近づくほど胸を押し潰されるような圧力が増し、呼吸すら困難になる。
カイは胸を抑え、苦しげに顔をゆがめた。
「っ……ぐ……」
「カイ!? また苦しいの!?」
「だいじょう……ぶだ。これは魔法じゃない。ただの圧だ」
だが、それは虚勢だった。
“観測局の男”が昨日行った干渉よりも深く、冷たい力が裂け目から滲み出ている。
世界を構成する“式”を通らず、根本の法則へ直接触れるような異常さ。
(観測局の残留干渉……いや、これはもっと上の何かだ)
呼吸を整え、カイはミリアを振り返る。
「ミリア、絶対に俺のそばから離れるな」
「わかった……でも危険なら、一度戻るべきじゃ――」
「戻ればもっと危険になる。歪みが広がれば、街が飲まれる」
ミリアは息を呑み、決意を込めて頷いた。
二人は駆け出し、森の最奥へと向かった。
◆裂け目の核心――“観測”の始まり
森の深部。木々は影のように黒く沈み、陽光すら拒絶している。
そんな暗闇の中心に、“それ”はあった。
黒い裂け目が、空気に無理やり傷を入れるように波紋を広げている。
ミリアには本体は見えないはずだが、周囲の異常だけで表情をこわばらせた。
「……空気が重い。魔力が……吸われてる?」
(吸われてるんじゃない。“観測されている”)
その瞬間、
「っ……!」
胸が激しく締めつけられ、視界が揺れる。
耳鳴りが爆ぜ、世界が遠ざかるような感覚。
「カイ!? 顔色、本当にひどいよ!」
昨日の観測局の干渉とは桁違いだ。
今、裂け目の奥にいる“何者か”は、世界の外側から直接この場所を捻じ曲げている。
黒い影が裂け目の奥でうごめき始めた。
輪郭が世界の法則に合っていない。形を保つことすら拒む、理外の存在。
その影を凝視した瞬間――
――〈 カ イ 〉
脳を直接叩く声が響いた。
「っ……!? 今の……誰!?」
ミリアは周囲を見回したが、声の主は見当たらない。
耳ではない。
“観測者”からの直接干渉だ。
(観測局の男じゃない……もっと深い、もっと冷たい何か)
「……誰だ」
カイが震える声で問い返すと、裂け目がゆっくりと広がる。
――〈観測進行中。反応確認。個体識別:カイ〉
ミリアは悲鳴を上げ、カイの腕へしがみついた。
「カイ!? 誰と喋ってるの!?」
「ミリア、俺の後ろに下がれ!」
――〈選択の時は近い〉
冷たい声が空気を震わせる。
「……選択?」
カイは眉をひそめる。
――〈この世界に紛れ込んだ“観測対象”。封印された理外の異物〉
胸が跳ねた。
自分自身を“異物”と断ずる声に、怒りが燃え上がる。
「黙れ……!」
――〈ならば証明せよ。己が、この世界に存在する価値を〉
次の瞬間。
ドッ、と世界が揺れた。
「ぐっ……!」
「カイ!!」
ミリアが駆け寄ろうとしたその刹那、
裂け目から吹き出した風圧がミリアの身体を横へ弾き飛ばした。
「ミリア!!」
叫びが森にこだまする。
――〈干渉開始〉
黒い影が動く。
裂け目の中で形をつくり始めたそれは、人に似ているが、人ではない。
関節が足りない。
指の数が合わない。
影も光も持たず、ただ“存在の過剰”だけを主張する異質な構造体。
(……来る!)
カイは剣を強く握った。
恐怖より先に、怒りと覚悟が湧き上がる。
(逃げない……ミリアを、街を……この森を守る!)
「来い……!!!」
叫びが森の重い空気を切り裂く。
そして、ついに――
理外の“観測体”が、この世界へ侵入を開始した。




