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6.わたしは理解した

 美沙都は厳輔に借りていた部屋着から、洗濯乾燥機ですっかり汚れが落ちていた自身の衣服に着替えた。

 ブラジャーやミニショーツまで一緒に洗って貰っていたのは少し気恥ずかしかったが、大恩ある厳輔にそんな下らないことで文句などいえる筈も無い。

 そもそも昨晩彼女は、自分のカラダをこの恩人に許すつもりでさえいたのだから、下着を見られたところでどうということもない話だった。


「さて……では行きますか」


 厳輔は黒いキャップにサングラスという体で、美沙都と肩を並べた。

 万が一、哲人が社屋での厳輔の顔を覚えていたら、それはそれで厄介だ。その為、素顔をそのまま晒さない方が良いだろうという結論に至った訳である。


「ところで、天堂さんはアメリカ海兵隊にいらっしゃったってことですが……それってつまり、アメリカに市民権があるってことですよね?」

「はい、持ってました。ついでにいうと日本国籍もあるので、一時二重国籍状態でしたが」


 しかし今は既にアメリカ市民権放棄の手続きを終えて、完全に日本国籍一本になっているとの由。

 尚、厳輔がアメリカに渡ったのは小学校低学年の頃だったという。その後ハイスクールまで学業に勤しみ、卒業と同時に入隊試験に臨んだということらしい。

 その後およそ十年間、中東や中南米、アフリカなどに派遣され、何度も死の危険に晒されてきた様だ。


「まぁあんまり細かいことは説明出来ませんけど、結構色々あり過ぎて、PTSDになる程度には精神が病んだって訳です」

「そんな、まるで笑い話みたいに……」


 移動の電車内で、厳輔は然程重要ではない雰囲気でさらりと説明したが、その余りに達観した態度に、逆に美沙都の方が物凄く心配になってしまう有様だった。

 しかし逆をいえば、殺し合い以外であれば大体対処出来る精神力がある、ともいえる。

 実際厳輔の目から見れば、美沙都の恋愛問題など取るに足らない平和ボケの些事なのかも知れない。


(うん……そりゃあ何度も本当に死ぬ目に遭ってきたひとからしたら、わたしと哲人の問題なんて、ホントにしょーもない子供の喧嘩みたいなもんだよね)


 そう考えると、真剣に考えるのが何だか馬鹿馬鹿しく思えてきた。

 それ程に、厳輔が語った地獄の経験は重みがある、という訳なのだが。


「でもホント、天堂さんが経験してきたことに比べたら、わたしの問題なんて、くっだらない話ですよね」


 苦笑しながら頭を掻いた美沙都。

 もっと視野を広げて、色々なひとの意見を聞けば、自分が味わって来た苦痛や悲しみなんて、大したことではないと思えるかも知れない。

 ところが厳輔は、美沙都のそんな発想を真っ向から否定した。


「上月さん、その考え方は危ないですよ」


 厳輔は吊革を握ったままその巨躯を僅かに屈めて、美沙都のすっぴんでも尚美しい顔に面を寄せてきた。


「各個人が抱えている問題の軽重は、他人の問題と比較して良い話やないですよ。他人から見たら軽い問題であっても、当人にとっては死活問題であるなら、それはそのひとにとって物凄く重要なことなんです。せやから、天堂の経験と比較して自分の問題なんて、とかいう発想を持つのはやめて下さい」


 この時の厳輔の表情は、今までにないぐらい真剣そのものだった。

 自分の問題なんて、他人から見たら所詮は些細なことだなどと軽んじるのは、絶対にやってはならない――厳輔は美沙都と哲人の間の問題も、美沙都自身が何より重要だと感じているならば、その危機意識を無視すべきではないと重ねて強調した。

 この厳輔の言葉には、美沙都は目が覚める思いだった。

 と同時に、感動した。


(こんな……赤の他人と同然のわたしの為に……そこまで、考えて、くれてるんだ……)


 これ程までに器が大きく、懐の深い人物とは、出会ったことが無かった。

 そしてこの時、美沙都は今まで記憶の中に封印してきた両親のことを不意に思い出してしまった。

 美沙都の父は彼女の母にとって、とんでもないDV夫だった。

 父から母への暴力は日常茶飯事だったし、場合によってはその矛先が娘である美沙都に及ぶこともあった。

 それでも母は、こんな程度は他に比べたらどうってことは無いと笑い、やせ我慢していた。

 だが、本質はそうではない。

 美沙都の母が父と離婚しなかったのは、この母が夫に対してあまりにも依存していたからだった。


(母さんは、父さん無しでは生きていけなかった……だからどんなに暴力を振るわれても、他に比べたらマシだなんて方向に話をすり替えて、現実から目を背けてた……)


 だから美沙都は、オトコに頼らない自立した女になろうと必死に努力した。

 結果、今は勤め先でも大いに頼られる企画課のエースとしての地位を確立することが出来た。だが、その自立心が余りにも強過ぎたのかも知れない。


(哲人との関係がぎくしゃくしてきたのも、結局はそこなのかな……)


 あの恋人はプライドが高い。男の自分が女の美沙都を養い、下に見て当然だという亭主関白気質を何かにつけて垣間見せていた。

 だからあんなにモラハラが激しかったのか。


(でも、そこに乗ってしまった私も、悪かったんだ)


 自立した女である以上、何かあれば自分に責任があるなどと変に思い込んでいたのかも知れない。それ故、哲人にあれだけ責められても常に自分が悪い、自分が至らない所為だと考えたのではないか。

 そう解釈すると、今まで頭の中にかかっていた靄が急に晴れていくような感覚に囚われた。

 全てに説明がゆく、納得の出来る結論であると思えた。

 だが、諦めるのはまだ早い。

 今からでも十分に挽回出来る。

 厳輔の無表情だが、しかし頼りになる存在感十分の顔を見ていると、自然とそんな勇気が湧いてきた。


(自立したオンナにはなる……でも、それだけを目指して、独りよがりになっちゃいけないよね)


 要は、バランスなのだ。

 極端に自立し過ぎても、極端に依存し過ぎても駄目だ。自分で自分の立ち位置を確立しつつ、同時に相手のことも理解出来る柔軟性が必要だという訳であろう。

 しかし、だからといって哲人がやらかしたことに対しては目を瞑るつもりは無い。

 そこはきっちり、落とし前を付ける腹積もりだった。


(その後のことは……その時になってから考えたらイイかな)


 美沙都は急に視界良好となり、目の前が開けてきた気分だった。

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