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5.わたしは腹落ちした

 結論を下すならば、早い方が良い。

 美沙都は、その日の内には一度哲人との同棲マンションに戻る決意を固めた。

 但し、あの雨の中で靴も履かずに飛び出してきてしまった。そこで厳輔が近所の商店街に出向き、生活用品店で安物のサンダルを購入してきてくれた。


「本当にすみません、何から何まで……」

「安物なんで、使い終わったら捨てて下さって結構ですよ」


 更に厳輔は交通系ICカードも一枚、用意してくれていた。実はこの厳輔のマンションから哲人との同棲マンションまでの距離は、電車で二駅分程度は離れている。

 つまり美沙都はあの雨の中、それ程の距離をずぶ濡れになりながら歩いてきたという訳だ。


(はは……我ながら、よく歩いたものね……)


 内心で苦笑を浮かべながら、自分自身に呆れた美沙都。しかし裏を返せば、そこまで夢中になって歩き続ける程に精神的な打撃を被っていたともいえる。

 そんな状態であの雨の中を更に歩き続けていれば、厳輔が最初に語った様に、本当に肺炎にでもなって病院に担ぎ込まれていたかも知れない。

 今から思い返せば、本当にぞっとする話だった。


「この御恩は必ず、お返しします」

「それは別に良いんですけど……おひとりで大丈夫ですか?」


 厳輔からのこの問いかけに、美沙都は思わず喉の奥で唸ってしまった。

 正直いえば、まだ怖い。

 哲人は今や美沙都にとって、安全な人間ではなくなってしまっている。物理的暴力、精神的暴力、更には経済的暴力まで平気で仕掛けてくる様な男だ。

 果たしてあんな奴を、恋人と呼んで良いのかどうか。

 だがそれ以上に驚いたのが、厳輔の洞察力だった。

 美沙都は哲人との問題について何ひとつ語っていないというのに、彼は美沙都の表情や佇まいから、何かの危険性が潜んでいることを敏感に見抜いていた模様である。

 これも矢張り、戦地で命を懸けてきた男の危険察知能力の一端なのだろうか。

 しかし流石にこれ以上、厳輔の世話になる訳にはいかない。幾ら何でも迷惑をかけ過ぎだ。

 ところが厳輔は、何食わぬ顔で美沙都の顔を覗き込んできた。


「もしかして、これ以上迷惑はかけられんとか思うてます?」

「え……いや、その……」


 本音をいえば、ついてきて欲しい。一緒に来て、勇気を分け与えて欲しい。

 戦場帰りの厳輔ならば、この分厚い筋肉の頑健な体躯ならば、哲人の暴力から守ってくれるだろうという期待が心のどこかに在る。

 だがそれを口にしてしまえば、更に甘えてしまうことになるだろう。

 ところが厳輔は、その甘えすら認めても良いと言外にいっているのだ。驚くべき器量だった。


「はっきりいうて、別に迷惑でも何でもないですよ。どうせ今日は姪っ子も()らんし、ずっと暇なだけですから」


 曰く、一度乗りかかった舟だから最後まで付き合う、ということの様だ。

 美沙都は、ただただ驚きの表情でこの2メートル近い巨漢の精悍な容貌をじっと見つめた。


「何やったら、急を聞いて駆けつけてきた遠い親戚とか何とか、いうといて下さい。その方が話も通し易いでしょうし」

「でも、そんな……わたし、ただでさえ、昨日からずっとご迷惑かけっぱなしなのに……」


 尚も困惑から抜け出せない美沙都。

 しかし厳輔は、そんなものは誤差に過ぎないと小さく肩を竦めた。


「私にとって迷惑といえるのは、武器もない状況で敵と殺し合えと命令されるぐらいのことです。それ以外なら別にどうってことはないですよ」


 余りに豪胆なひと言に、美沙都は両目を白黒させた。

 この人物は、以前から会社で何度か顔を合わせたことはあるものの、基本的には赤の他人だ。

 それなのに何故、ここまで親身になってくれるのだろう。どうしてこんなにも、救いの手を差し伸べてくれるのだろう。

 彼には、少なくとも性的な下心は無い。それは既に昨晩、証明されている。

 では一体何が厳輔をここまで突き動かしているのだろうか。


「何で私が、ここまでお節介を焼くのか、よう分からんってお顔ですね」

「え、いえ、そんな……」


 完全に心の中を見透かされている気分だった。美沙都は慌てて顔を伏せたが、その頬は間違い無く、真っ赤に上気していたことだろう。

 すると厳輔は、自分の為です、と低く答えた。

 その意味が、美沙都はよく分からなかった。


「以前、或る任務地で、現地の女性協力者の手を借りることがありました。その時彼女は、危険があることが分かっているにも関わらず、自分ひとりの手で解決出来るというてきましてね……で、我々もその言葉を信じて、彼女に任せた訳です。それが、失敗でした」


 結果、その女性協力者は命を落とした。最愛の夫と子をこの世に残したまま。

 あの時、厳輔は大いに後悔したのだという。

 危険があることが分かっていて、それでも傍観してしまった。彼女を死なせた責任は自分達にもあると、厳輔と彼の同僚達は心底悔やんだ。

 それ以来厳輔は、危険の匂いを察知した以上は絶対に見捨ててはならぬと肝に銘じているのだという。


「私自身が、後悔したくないんです。これは私の我儘やと思うて下さい」


 自分が安心したいから。

 危険が潜んでいると分かっているところに、知り合った女性を何の準備も無しに送り出す様な真似はしたくないから。

 それが、美沙都を手伝いたいと思う厳輔の心情、ということらしい。

 美沙都は、厳輔の感情に乏しい瞳の中に偽りが無いことを感覚で理解していた。


(このひとは、嘘をついてない……)


 心の中で、すとんと腑に落ちる感覚が生じた。彼を信じて良い。彼を頼って良いという想いが、一気に込み上げてきた。


「では、その……お願いして、良いでしょうか」

「是非その様に」


 こうして美沙都は、厳輔と共に哲人との同棲マンションに引き返す運びとなった。

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