4.わたしは心を決めた
朝食を終えたところで美沙都は食器洗いなどの後片付けを申し出たが、厳輔はそれすらも拒絶し、リビングのソファーに座って寛いでおけなどと、ぴしゃりといい放った。
静かな口調ではあったが、しかしどこか抗えない迫力があった。
幾つもの戦場を渡り歩き、銃弾の中を掻い潜ってきた者の凄みなのだろうか。
ともあれ、美沙都はすごすごとリビングへと場所を移し、幾分緊張しながらソファーに腰を下ろした。
と、ここで彼女は今更ながら物凄く重要なことに思い至った。
(あれ……もしかしてわたし、何で昨夜、あんな格好で街中うろうろしてたのか……説明してないんじゃ?)
よくよく考えれば、厳輔に拾われてこの部屋に連れ込まれて以降、美沙都は簡単な自己紹介を済ませただけであり、今に至る顛末については何ひとつ話していないことに気が付いた。
逆をいえば、厳輔が何も訊かず、美沙都の事情には一切触れないまま彼女を救い、ひと晩の宿を提供してくれたことになる。
(うわぁ……わたし、何やってんだか……!)
今になって急に恥ずかしくなってきた。
何も訊かずに、ただ善意だけで世話してくれている相手に対し、家族のことやPTSDのことなどを一方的に聞き出すだけで自分は何も語っていなかった。
こんなにも失礼で不義理な話があろうか。
穴があったら入りたい気分だった。
ところが厳輔は相変わらず無表情なままでさっさと洗い物を済ませ、更にはドリップ式のコーヒーまで淹れてくれた。
家の中で寛いでいるだけで、何もしなくても他のひとが色々とやってくれるという状況が余りに久し振り過ぎた為、美沙都は何となく居心地が悪く、微妙にそわそわしてしまっていた。
「お口に合うか分かりませんけど、良かったらどうぞ」
「あ、どうも……その、頂きます」
若干頬を上気させながら、ちらちらと厳輔の精悍な横顔を盗み見してしまった美沙都。
こうして改めて見てみると、本当に良いオトコだった。これでカノジョや妻が居ないというのが、どうにも解せないぐらいに。
この若さでファミリータイプのマンションに住み、家事も料理も完璧にこなし、更には非常に紳士で気遣いの出来る男性である。
どうして彼は、親しい女性を身近に置こうとしないのかが、非常に気になってしまった。
翻って、自分はどうか。
恋人に裏切られ、傷つけられ、挙句の果てには逃げ出さざるを得なくなったのが現状である。
パートナーが居ることが、必ずしも幸せなことではないのかも知れない、などと穿った見方すらしてしまうのが、今の美沙都が置かれている状況だった。
だがそれはそれとして、矢張り何故自分がマンションを飛び出し、厳輔に救われることになったのかの経緯ぐらいは、きちんと説明しておくべきだろう。
美沙都は香り豊かなコーヒーをひと口すすってから、意を決した表情で斜め向かいのソファーに腰を落ち着けている精悍な巨漢にその美貌を向けた。
「あの、天堂さん……昨夜は本当に、ありがとうございました。わたし、天堂さんに助けて貰えなかったら今頃どうなってたかと思うと、ぞっとします……とても……とても、助かりました」
「お気になさらず。私も余計なお世話だったかなと少し心配しておったところですので」
この時、美沙都は慌てて腰を浮かしかけた。
彼女は余計なお世話などとは、欠片にも考えたことは無かった。
「そんな、とんでもないです……わたし、天堂さんに助けて貰えてなかったら、きっと物凄く拙い状況になってました……!」
しかし厳輔は、特に恩着せがましい台詞を放つ訳でもなく、黙然と熱いコーヒーをすするのみ。
彼は決して、自分の口から美沙都の事情を問いただそうとはしなかった。
「それにわたし、とっても失礼ですよね……どうして昨夜、あんなところでずぶ濡れになってたのか、ひと言も説明してないですし」
「ああ、そんなん別に良いですよ。何か事情があったから、おひとりであそこに居てはったんでしょうし」
厳輔は全く意に介していない様子で、しれっと当たり前の様に答えた。
その余りにあっさりした応えに、逆に美沙都の方がぽかんと口を開けてしまう有様だった。
「えっと……その……気にならないんですか……?」
「気にならんといえば嘘になりますけど、かといってどうしても聞き出さないかんかっていうと、別にそんなこともないですし」
つまり彼は、事情を話すも話さないも、全て美沙都の判断に委ねるといっている訳だ。
厳輔は見返りはおろか、事情説明すらも求めないと明言しているのである。
こんな男性、今までに出会ったことがあっただろうか。
「……軍にはね、色んなひとが居ました」
ここで厳輔は不意に、全く関係が無さそうな話題を口にした。美沙都は相手の意図が読めず、ただ黙って厳輔の言葉に耳を傾けていた。
「元犯罪者、薬物依存者、ホームレス、その他諸々……でも、そんな過去はどうでも良いんです。要は、国の為に戦う意思があるか。必要なのは、それだけです」
それから厳輔はコーヒーカップをテーブルに置き、ほとんど表情の無い面を美沙都に向けてきた。
「私は昨夜何があったかは別に気にしませんが、これから上月さんがどうしたいのかについては、お伺いせんといかんかなと思ってます」
美沙都は、ごくりと息を呑んだ。
今、目の前に居るひとは過去には拘らず、ただ前だけを向いている。PTSDに苦しんでいるからこそ、未来が大事だ、これから先に進むべき道が重要だと説いているのだろう。
このひとはどうして、そこまで真っ直ぐに前を見ることが出来るのか。
美沙都は、巨大なハンマーで頭を強烈に殴られた様な衝撃を覚えていた。
そしてこの時、彼女の脳裏には哲人の怒りと憎悪に歪んだ顔が浮かんだ。
(そうだよね……今のままじゃ、駄目なんだ。ちゃんと、決着つけとかないと)
連休が明ける前には、一度哲人との同棲マンションに戻らなければならない。
それまでに美沙都自身が、己の中で自身の心に結論を下しておかなければならないのだ。
恋人と話し合った上で再出発を目指すのか、或いは、このまま幕を下ろすのか。
(でも……)
テーブル上のコーヒーカップに、視線を落とした美沙都。
実はもう、今の時点で彼女の心は決まっていたのである。