3.わたしは知ってしまった
翌朝、美沙都は客間のベッド内で目を覚ました。
結局昨晩は、厳輔に自身の声を届かせることが出来ず、止む無く用意された客間へと引き返す破目となってしまった。
あの時の厳輔は一体、どういう状態だったのだろう。
就寝直前までずっと気になって仕方が無かったのだが、気が付けば朝になっていた。自分でもびっくりするぐらいに疲れが取れている。余程ぐっすり眠ることが出来たのだろうか。
(あ、そうだ……せめて朝食ぐらいは……)
昨晩は何も出来なかった。
であれば、朝食の準備ぐらいは美沙都の手で進めるべきだろう。
あの雨の中、何も出来ずにそのまま夜の街を徘徊していたかも知れなかった可能性を考えると、美沙都は厳輔に対して最大級の恩返しをしなければならない。
ところが廊下に出たところで、リビングの方から美味そうな匂いが漂って来た。
(え……もしかして、先手取られちゃった?)
慌ててリビングダイニングへと歩を進めてゆくと、既に厳輔はふたり分のプレートをダイニングテーブル上に並べ終えようとしているところだった。
「おはようございます。パンか米の飯か、どっちが宜しいですか?」
「あ、えーっと……それじゃあ、ご飯で」
完全に出遅れてしまった。
何ともいえぬ罪悪感を胸の奥に抱えながら、美沙都は厳輔に勧められるままに食卓へと就いた。
厳輔は、淡々と箸を手に取って食事を始めてしまった。美沙都もただ黙ってじっとしている訳にはゆかず、相手に倣って箸をつけることにした。
「わ……すっごく、美味しいです」
「お粗末様です」
我知らず、つい感想が口を衝いて飛び出してしまった。
厳輔が用意してくれた朝食は思いの外に美味く、美沙都の中では最高級の絶品として認定された。
ホテルの朝食バイキングに出せるのではないかと思える程の絶妙な舌触り、歯ごたえ、味付けの妙だった。
そして同時に思う。ここ何年か、誰かの手料理を味わったことなんてほとんど無かった、と。
もっといえば、レストランなどの外食以外で、男性が手ずから用意したものに口を付けるのは、実は生まれて初めてだった。
何年も一緒に過ごした哲人でさえ、美沙都の為に料理を振る舞ってくれたことは一度も無かった。
ここで美沙都は改めて室内に視線を走らせてみた。
どの家具、どの調度品も綺麗に掃除されており、埃が溜まっている箇所は全く目に付かない。
日頃からしっかり家事をこなしていなければ、ここまでの状態を維持することなど不可能だろう。
厳輔はもしかすると料理だけではなく、掃除や洗濯、掃除などのあらゆる家事の達人なのではないか。
そうなると、ひとつの疑問が湧いてくる。
美沙都は助けてくれた相手に対して甚だ無礼だとは承知の上で、しかし矢張りどうしても訊いておかねばならぬと腹を括った。
「あの……大変ぶしつけなことをお訊きしますけど……その、御家族の方は?」
「今日のところは私ひとりです。連休の最終日になったら、実家に遊びに行ってる姪っ子が帰ってきますが」
一瞬だけ、息が詰まる様な気がした美沙都。
厳輔には妻も子供も居ない様だが、姪と一緒に暮らしている、ということなのだろうか。
そんな美沙都の疑念を彼女の美貌から見抜いたのか、厳輔は別段訊かれもしていないが自ら口を開いた。
「弟夫妻が事故で亡くなりましてね。で、遺された姪を私が引き取りまして、面倒見ています」
「あ……そう、だったんですね……」
気まずい空気が流れた様に思えたが、しかし厳輔はまるで気にした風もなく、淡々と箸を動かしている。
それでもひとつ疑問が解消された。現状、彼には妻は居ない。であれば昨晩、厳輔に求められれば応じようと決意したことは、決して間違っていなかった訳だ。
となると、残るはもうひとつの疑問だ。
昨晩彼はベッドの上で、何をしていたのか。部屋を訪れた美沙都の気配に気づいていたのかどうかは分からないが、少なくとも彼は美沙都の存在をまるで無視していた。
これは訊いて良いことなのかどうか大いに迷うところであったが、しかし自分が恩知らずなオンナだと思われるのは、それはそれで癪だった為、敢えて問いかけることにした。
「えっと……それから、もうひとつ……差し支えなければで結構なんですけど……」
美沙都は慎重に言葉を選んだ。
下手をすれば、相手を怒らせてしまうかも知れないデリケートな質問だ。ここはじっくり、細心の注意を払って問いかけるべきだろう。
ところが――。
「昨晩のことですか?」
「あ……え、はい、えっと、その……仰る、通りです……」
完全に不意打ちを喰らった格好で、美沙都は幾分呆気に取られながら頷き返すしかなかった。
そんな彼女に対して厳輔は相変わらず無表情のまま、静かに答えた。
「PTSDです。心的外傷後ストレス障害……聞いたことぐらいは、あるかと思いますが」
「あ、はい……その、ドラマとかニュースなんかでは、たまに」
美沙都は目の前の端正な顔立ちに、思わず見入ってしまった。まさかそんな言葉が飛び出してくるとは、思っても見なかった。
「死の危険、大きな精神的ショック、強いストレスなんかが原因とされています。その時の体験がフラッシュバックして悪夢として蘇ったり、似た様な状況を避けたり、幻覚を見たりなどして精神的な苦痛やら機能障害を起こす状態だそうです」
まるで他人事の様に語る厳輔。美沙都は何もいえないまま手を止めて、尚も厳輔の顔を凝視し続けた。
「それってつまり……天堂さんは元警察官とか、元消防士だったとかで、そういう現場を見てしまったとか、命の危険に晒されたとか、そういうことなんですね?」
「そうですね。正しくは中東や南米、アフリカでの戦地で色々な目に遭い過ぎたのが原因ですが」
厳輔は、自身が元アメリカ海兵隊の二等軍曹だったと低い声音で搾り出した。
つまり彼は、戦場で敵兵と命のやり取りをしてきた、というのである。
戦争を知らない、身近に感じることの無い美沙都にとっては、余りに衝撃的な告白だった。だが当の本人はまるで茶飲み話でもするかの様な軽い調子で、だからPTSDに罹りましたと結論に繋げていた。
「まぁこれも一種の病気なんで、上月さんは何も気にされる必要は無いです……あ、お代わり要りますか?」
厳輔が美沙都の空っぽになった茶碗に視線を注いでいた。
しかし、美沙都はもう、それどころではなかった。
昨晩、彼はきっと戦場での地獄の様な記憶に苛まれていたのだろう。なのに自分は、取り敢えず求められればカラダで応じようなどと軽い気持ちで厳輔の寝室を訪れた。
その事実を知った今、美沙都は居たたまれない気分に陥っていた。厳輔は気にする必要は無いといったが、知ってしまった以上はそんな訳にはいかない。
何よりも彼は、美沙都にとっての大事な恩人なのだ。
このまま何もせず、ありがとうございましたと御礼だけを述べて彼の前から去ってゆくなど、とてもではないがあり得ない話だった。