2.わたしは救われた
それから、およそ30分後。
美沙都は見知らぬマンションの脱衣所で、濡れた衣服を洗濯籠に放り込んでいた。
ここは、天堂厳輔という男が住むマンションだった。
雨に打たれて身も心もボロボロになっていた美沙都に対し、ひとりの巨漢が手を差し伸べてきた。美沙都の勤務先の社屋で清掃担当として働いている契約社員――それが厳輔だった。
彼は立ち上がれない美沙都を強引に引き起し、お姫様抱っこの要領で抱きかかえたまま、自身のマンションへと連れ帰ってきたのである。
彼は傘を持っていたが、自身の体がずぶ濡れになることも厭わず、美沙都を窮地から救い出してくれた。
そう考えると、悪い人物ではない様にも思えた。
「風呂入って、体温めて下さい」
厳輔に指示されるがまま、美沙都は脱衣所へと足を運び、そこで部屋着も下着も全て脱ぎ捨てた。
(この後……どうなるのかな……)
全く先行きが読めない。
あの厳輔という男は、彼女を自宅マンションに連れ込んで、何をしようというのだろう。
或いはひと晩だけのカラダの関係を持とうという魂胆なのだろうか。
(……イイわ、別に、それでも)
湯煙が立ち昇る浴槽の中に身を沈めて、漸く少しばかり心が冷静になってきた。
ほとんど何も持たず、靴さえ履かずに哲人との同棲マンションを飛び出してきてしまったのは、迂闊だったかも知れない。
辛うじてスマートフォン一台あれば何とかなるご時世ではあっても、矢張り少しばかり無謀だったと今になって反省の念が込み上げてきた。
(でも、しょうがないじゃない……哲人に、あんな風に手を上げられたんだし……)
最初は平手打ちだったが、その次に哲人が振り上げたのは、紛れもなく拳だった。彼は間違い無く、美沙都を傷つける意図を持って拳を握り締めていた。
(哲人のあんな顔、見たこと無かったな……)
美沙都に襲い掛かってきた時の哲人の面には、怒りと侮蔑と憎悪の色が複雑に絡み合っている様に思えた。
果たして、将来を誓い合った恋人に対して普通、あんな顔を見せるものなのだろうか。
(分からない……けど)
少なくとも今、美沙都は哲人を許す気は無い。
あれ程のことをされてしまっては、今までの様に自分を納得させることなど出来よう筈が無かった。
幸いなことに、明日からは土日の週末だ。更に月曜は祝日ということもあり、三連休の間に何とか考えを纏めて、今後の対応を決めることが出来るだろう。
だがその前に、厳輔への感謝と恩返しも忘れてはならない。
もしもあそこで彼が手を差し伸べてくれなかったら、今頃どうなっていたのか分からなかった。
(例え……下心ありきでも、全然構わない。わたしを助けてくれたことは、事実なんだから……)
それにしても、本当に逞しい豪腕だった。
美沙都は日々の栄養管理とダイエットですらりとしたボディラインの持ち主ではあるが、それでも成人女性の平均的な体重はある筈だ。
その美沙都を、厳輔は子供でも抱きかかえる様な軽やかな仕草で、すっと持ち上げてしまった。
このマンションまで運ばれてくる間、美沙都は厳輔の胸板や二の腕の感触を直に感じていたのだが、本当に惚れ惚れする程の分厚い筋肉の塊だった。
(ボディビルでも、やってらっしゃうのかしら……?)
そんな風に思ってしまう程度には、あの筋肉は実に素晴らしかった。
(……って、わたし何考えてんだろ……)
もしかすると今宵、自分はあの逞しい腕に、ひとりのオンナとして抱かれることになるかも知れない。そんな想像が自然と頭の中に過っていた。
しかし彼の無表情で淡々とした顔つきからは、夜の生活というものがどうにもピンと来ない。
案外、ベッドの中では野獣の様に激しく豹変するのかも知れないが、先程までの厳輔の表情を見る限りでは、乱暴な態度は一切見せない好紳士にも思えた。
(もし、求められたら……ちゃんと、応じよう。それが、わたしをあんな地獄の中から救ってくれたひとへの、せめてもの礼儀だもんね)
美沙都は大きく吐息を漏らしてから、浴槽を出た。
もう十分に体が温まっている。あれ程にボロボロだった心が、随分と癒された気分だった。
そうして脱衣所に出ると、新しいバスタオルの他に、メンズ仕様の大きなサイズの部屋着がひと組、用意されていた。
流石にレディース向けのパジャマなどは、急には用意出来ないだろう。
勿論、下着などは無い。今夜はノーパンノーブラで過ごすしかないのだが、美沙都にとってはこれだけでも十分に有り難かった。
この時、美沙都は洗面台に二本の使い古した歯ブラシがあることに気付いた。一本は成人用で、一本は子供用だった。
(お子さんがいらっしゃるのかしら……?)
歯磨き粉も、子供用のものが一緒に置いてある。
ということは、厳輔は妻帯者か子持ちという訳であろうか。
(でも……奥さんが居る家に、独身のオンナを連れ込んだりするかなぁ?)
そんなことを思いながら、美沙都はドライヤーでしっかり髪を乾かした後、リビングへと引き返した。
シーリングライトは点いているが、そこには誰も居ない。その代わり、ダイニングテーブル上に菓子パンが幾つか並んでおり、好きに食べて下さいと記されたメモが添えられていた。
入浴前に、客間のベッドを使用する様にともいわれていたが、しかし本当にこのまま、ひとりで就寝してしまっても良いのだろうか。
(……やっぱり、一応訊くだけ訊いておいた方が、良いよね……)
自分から夜這いをかける様な真似は少し気が引けたものの、矢張りそこは、助けて貰った側の誠意という部分もある。
美沙都は意を決して、部屋の主人たる厳輔の寝室へと、そっと忍び込んだ。
「あの……もう、寝ちゃいました……?」
静かにドアを開けて室内に身を滑り込ませたところで、美沙都はその場に凝然と凍り付いてしまった。
厳輔は、まだ起きていた。だがその表情が、尋常ではなかった。
彼は薄闇の中、ベッドの上で膝を抱える様にして座り込み、宙空の一点をじぃっと睨みつけている。
美沙都の来訪を待っていた、という訳でも無さそうだ。実際、彼の瞳には野生の獣の如きギラギラとした鋭い眼光が宿っていたのである。
「あの……天堂さん……?」
美沙都はごくりと息を呑んでから、ベッドに忍び寄った。
ここで初めて彼女が、厳輔がぶつぶつと何かを呟いていることを悟った。
余りはっきりとは聞き取れなかったが、この時厳輔は、誰かと無線交信でもしているかの様な文言を並べていた。
そしてその瞳は依然として、闇の中の空間を見据えたままだ。
もっといえば、美沙都の存在にも気づいていない様子だった。