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1.わたしは出会った

 冷たい雨が降りしきる中、上月美沙都(こうづきみさと)は全身がずぶ濡れになりながらもひとり静かに、週末の繁華街をふらふらした足取りで徘徊していた。

 いつもなら艶やかに輝いているオリーブブラウンのエアリーボブも、この日の夜ばかりは無残に濡れそぼっている。

 つい小一時間程前、美沙都は恋人である漆崎哲人(うるしざきてつと)との同棲マンションを、ほとんど着の身着のままだけで飛び出してしまった。

 Gパンの尻ポケットに差し込んだスマートフォンには、何の通知も入っていない。哲人は雨の中へと飛び出していった美沙都を気遣うこともしていなかった。


(もう……無理……)


 道行くひとびとから奇異の視線を浴びせられるのも一切無視して、美沙都は己の心を抉った哲人の非道な行いの数々を思い起こしていた。

 発端はいつだったのか、よく分からない。

 だが気付いた時には、全てが手遅れとなっていた。

 最初の事件は、一カ月前。

 哲人が勤め先であるスミヤマインテリジェンス株式会社の営業課に配属されたばかりの若い女子社員と、ふたりきりで温泉旅行に出かけていたことが発覚したのである。


「うるせぇな! オレが誰とどこに行こうが、オマエに関係ねぇだろ!」


 問い詰めた美沙都に対し、哲人は寧ろ何が悪いのだと開き直る様な態度で逆襲してきた。

 結婚を前提に付き合っておきながら、あり得ない言動だった。

 更にもっと驚くべき事態が待ち受けていた。

 哲人は、美沙都が将来の結婚資金の為にとコツコツ積み上げてきた貯金に手を出し、その全てを浪費してしまっていたのである。どうやら浮気相手の女子社員にほぼ全額、貢いでいたらしい。

 美沙都が今宵、同棲マンションを飛び出してしまったのは、この哲人の結婚資金使い込みを追及したところで彼が逆上し、暴力に訴え出てきたからである。

 恋人への失望に加え、身の危険を感じた美沙都は咄嗟にマンションから駆け出して、雨が降る街並みの中へと逃げた。

 そして、現在に至る。

 今夜はもう、あの部屋に戻りたくなかった。

 否、これから先も戻るべきかどうか、大いに逡巡していた。


(あんなに、ふたりで幸せになろうねって約束したのに……)


 情けなくて、悔しくて、涙が止まらない。

 一体いつから、哲人との間でこんなすれ違いが生じていたのだろう。

 今から思えば、既に半年程前からその予兆は見え隠れしていたかも知れない。

 哲人はあの頃から自分の都合ばかりを優先し、美沙都との時間を持とうとはしなかった。

 家のことも、それ以外のことも何かにつけて全て美沙都に押し付け、その一方で哲人はひとりでふらふらと遊び回る様になっていた。


「ねぇ……今度の週末、ちょっと時間取れない?」

「あー……ダメダメ、もう先約入ってるから」


 そんなやり取りがまるで当たり前の様に、日常の中で繰り返される様になっていた。

 もしかすると既にあの頃から、浮気相手の女子社員との逢瀬を重ねていたのかも知れない。が、今となっては知る術も無かった。


(半年前って、何か、あったかな……)


 裸足のままでマンションを飛び出してきた為、足裏にアスファルトの硬さを直に感じながら、水たまりの中を黙然と歩き続けた。

 そういえば、哲人の態度が微妙に変化し始めた頃に美沙都の大幅昇給が重なっていたことを思い出した。

 あの時美沙都は、これからは自分もたくさん稼いで哲人との生活をもっと楽にしてみせるという意味の言葉を口にした。


(哲人……何だか物凄く、微妙な顔、してたっけ……)


 同じ会社で企画課のエースとして勤務する美沙都と、営業課で働く哲人では、そもそもの土俵が異なる。

 ただ、哲人は美沙都と付き合う前からプライドの高い男だった。


(もしかしたら……あれが切っ掛けだったのかな……)


 哲人は何かにつけて、美沙都の行動を細かくチェックしては揚げ足取りの様にちくちくと責めてくることが多かった。

 付き合い始めた当初は、


「うわ……オレ、こんな美人と付き合ってイイのかな……」


 などと褒めてくれていた哲人。実際美沙都は、スキンケアやヘアケア、ボディメイクにも熱心で、常に自立したひとりの女として己を磨くことに余念が無かった。

 ところが付き合い始めて一年が経過する頃になると、やけにモラハラ的な言動が増えてきた。

 しかし美沙都は、それも哲人が恋人の為を思ってのことだと考え、無理矢理にでも自らを納得させた。事実、仕事が忙しくになるにつれて、美沙都の家事は段々疎かになり始めていたからだ。

 一方、哲人はどこか亭主関白な性格らしく、家事には一切手を出そうとしなかった。家のことも、そして哲人の身の回りの世話も、全て美沙都の役割だった。

 そして今度は、収入面でも哲人を上回ったのが半年前。あの頃から、哲人の態度は明らかに美沙都を蔑ろにし始めていた。


(あんなに……あんなに、ふたりで将来のことも話し合ったのに……哲人、どうして……)


 もう、それ以上のことは考えられない。

 何故哲人は、こんなにも変わってしまったのか。

 全部、自分が悪いのか。

 哲人の為にと必死に頑張ってきたことが、逆に悪かったのか。仇となってしまったのか。


(わたし……今まで、何やってたんだろ……)


 と、その時、尻ポケットに差し込んでいたスマートフォンのバイブレーションが起動した。もしかしたら哲人が心配して連絡してくれたのかと、僅かな希望を抱いてその画面を覗き込んだ。

 だがそこで、美沙都は更なる衝撃に見舞われた。

 彼女のスマートフォンに表示されていたのは、消費者金融からの借入金返済予定通知だった。

 勿論、美沙都にはそんなものに手を出した記憶は無い。

 あり得るとしたら、哲人だ。彼が無断で美沙都を連帯保証人か何かに引きずり込んだのだろう。


(嘘……そんな……そんなことって……)


 この時、美沙都の中で何かが崩れる様な感覚が込み上げてきた。

 もう本当に、何もかもが終わった様な気がした。


(あ……無理……もう、本当に、駄目かも……)


 狭い路地へと角を折れ、そこで水しぶきを上げてへたり込んでしまった美沙都。

 立ち上がる気力すら無かった。

 気配を感じたのは、その時だった。それまで彼女を容赦なく打ちのめしていた雨粒が、不意に途絶えたのである。

 後方を振り仰ぐと、誰かが大きな傘を手にして佇んでいた。


「あ……」

「立てますか?」


 問いかけてきたのは、野太い声。

 左右の軒先から届く店舗の灯りに照らし出されていたのは、2メートル近い巨躯を誇る精悍な男の、無表情な顔立ちだった。

 美沙都は、この男を知っていた。確か、スミヤマインテリジェンスの社屋で清掃担当として働いている契約社員だった。

 名前までは知らないが、筋肉が山の様に盛り上がる不愛想なイケメンということで、一部の社員の間では少しばかり噂になっちる人物だった。


「風邪ひきますよ。下手したら肺炎にもなってしまいます。どこか、行く当ては御座いますか?」


 静かに問いかけてくる男の声に、美沙都はただ嗚咽を漏らし、泣きじゃくるしかなかった。

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