21.本当の名前
糸の昔話に、自然と涙が溢れていた。
「それで、夏野くんと2人であなたをここに連れてきたの」
「どうして教えてくれなかったんだ」
「・・・なんでだろう。私はあなたの味方だと言っても、信じてくれないかもしれないと思ったからかな」
ここに来た頃を思い出す。俺を追い出そうとする小僧や眼鏡から糸はいつも守ってくれた。
人間のような出立ちになれるよう市場に連れ出してくれた。
俺がここに来た理由を聞かないでくれた。
「ありがとう。今までずっと、味方でいてくれてたんだな」
糸は少し考えて口を開いた。
「初めは美桜の思いに答えたかったからあなたを守ってた。美桜がいつも言ってたの、『獣人に会えたら、お母様の恩を必ず返す』って」
糸はその後の言葉を紡げず俯く。それでも何とか涙を我慢して、俺に言った。
「・・・美桜を看取った医者は私なの」
大きな目から涙が溢れる。その言葉で、彼女の言いたいことを理解した。
「彼女を救えなかったのも私。目の前にいたのに、美桜のおかげで生きながらえたのに、医者になったのも美桜のおかげなのに、私はそんな恩人を救えなかった」
「・・・医者は神じゃない。糸は悪くない」
「私はきっと美桜を救うために生まれたはずなのに、苦しませて、そのまま死なせた。ずっと、心から消えなかったの、美桜の苦しむ顔が」
泣きじゃくる糸の肩をそっと引き寄せる。
「だからあなたを見つけて、命を救えた時、美桜に少しでも恩返しできたかなって嬉しかった。だって、あなたの眼、美桜にそっくりだったんだもの」
糸がしてくれた昔話と、じいがしてくれた昔話。その2つを擦り合わせたら、自然と繋がりが見えてくる。
「美桜さんの母親の名前は?」
「・・・菜穂さん」
糸は懐から銀の首飾りを取り出した。七十と刻まれているのを確認し、思わず涙が溢れる。
「あなたのには七ニと刻まれてた。ということは菜穂さんを助けてくれた恩人は、あなたの家族でしょ?」
複雑な感情が渦を巻く。
「菜穂さんは、王宮に入ってどれくらいで亡くなった?」
「王宮に入ってすぐ美桜を産んで、美桜が10歳になる頃病気で」
「苦しんで亡くなったのか」
「美桜が言うには、眠るように静かに亡くなったって。美桜以外に子どもを産むことはなかったけれど、王様は菜穂さんをとても深く愛しておられたから・・・」
菜穂さんは人間の世界に渡った後も生きていた。王宮に閉じ込められて無事を知らせることこそできなかったが、確かにゼファが守った命の灯火は消えてなかった。
生きていることさえ分かれば、ゼファはあんな風にならなかった・・・
やるせなさを感じる。
父と母が死ぬこともなかったし、今頃みんなで幸せに暮らしていたのかもしれない・・・
だけど菜穂さんが王宮に行ったことで美桜さんが生まれ、糸が助かった。
美桜さんがいなければ糸は飢え死にしていただろう。
運命の歯車とは不思議なものだ。ゼファと菜穂さんの繋がりが、自分と糸を繋げていた。
俺は今、ゼファを殺そうとしている。
菜穂さんから美桜さん、そして糸へ引き継がれた意志の根源を、俺は殺そうとしているのだ。
「・・・でも、ずっと美桜のためにあなたの側にいたわけじゃないわ」
糸は美しい笑顔でそう言った。
「今は私があなたの側にいたいからここにいるの」
その言葉で覚悟が決まった。
糸には全てを話そう。
たとえそれが、俺たちを引き裂くものだったとしても。
「俺のする話を、聞いてくれるか」
それから、ぽつりぽつりと少しずつ、だけど全てを糸に話した。
獣界のこと。
俺がどうやって育ってきたのか。
そして、俺が生まれる前に起きた、ゼファと菜穂さんのこと。
兄弟の決裂のこと。
両親が死んだ理由。
俺が今、ここにいる理由についても、全て。
糸は真剣に聞いていた。
「ここからは俺の予想だが、美桜さんはおそらく、ゼファと菜穂さんの子どもだと思う」
糸はもう気づいていたのだろう。驚きはしなかった。静かに頷いて、懐かしむように遠くを見た。
「きっとゼファは、王様が菜穂さんを殺したと思い込んでて、王様を殺そうとしてる。王宮に仕える者たちが次々と殺されてる、オオカミの姿をした犯人はゼファで間違いないだろう」
美桜さんにとっては、本当の父親が母親の仇を取るため育ての父を殺そうとしているということだ。
「俺が話せることはこれで全てだ」
「まだ教えてくれてないことが1つあるわ」
見当がつかず首を傾げる。
「あなたの、本当の名前は?」
「・・・ロウ。第39代獣王の、ロウだ」




