14.嵐の到来
俺が花野医院に来て、40日目。
腹の傷はもうすっかり塞がっていた。
傷がほとんど塞がったから、そろそろここを去ろうと思う。
そうみんなに伝えたところ、意外にも最初に反対してきたのはあんなに俺を毛嫌いしていた小僧だった。
『記憶を取り戻せてないのにここを出てどうするんです?社会を舐めすぎですよ』
相変わらず生意気だったが、言外にここにいても良いと伝えてくれているようで嬉しかった。
『いっそ記憶を完全に取り戻すまでここで働いたらどうかな?人手不足だし。僕たちの補助の仕事くらいなら、君にもできると思うよ』
現実的な計画を提案してくれたのは眼鏡だった。
雪は声を上げて行かないでと泣いた。
糸は反対も賛成もしなかったが、毎日傷を診てもらう度に、どう考えてももう何ともない腹の傷を見ては「まだ塞がりきってないわ」とわざとらしく俺に伝えた。「絶対安静にしてね」それが最近の糸の口癖だった。
糸は俺がここを去ることを望んでいないようだ。そんなふうに思い上がってしまう自分は、ひと月できっと人間の世界に染まったのだろう。
実際、小僧の言う通りここを出て生きる術は持ち合わせていなかった。金もないし、働くこともできない。
「きっちりお代を払えるだけの金を手に入れるまで、ここで働かせてくれないか」
そう言って頭を下げると、4人ともその願いを快く受け入れてくれた。
それから俺は花野医院で働いている。
備品を補充したり、買い出しに出掛けたり。仕事を一言で言うなら雑用だ。
糸と眼鏡は俺を容赦なくこき使ったので、ある意味心地よかった。
4人との絆は深まる一方だった。
獣国での出来事が夢だったのではないかと思うほどだった。仕事に追われて、ゼファのことを考えない1日もあったくらいだ。
それでも毎晩夢には両親が出て来た。『ロウだけは助けて』と泣いていた。
これはきっと、ゼファがまだ生きていて俺を追っていることを知らせているのだろうと、そう解釈した。
その夢を見るたび、ここで幸せを感じてはいけないんだと強く自分に言い聞かせた。
「一之助、包帯の在庫が切れたから買い出し行ってくれない?」
糸に頼まれ、銭を握りしめて市場へ走る。足の速さには自信がある。頼りにされるのは嬉しかった。
今日は小僧が学校でいない。眼鏡は珍しく風邪を引いていて休養中。患者は少なかったが、人手は足りなかった。急いで頼まれたものを調達する。
市場の商人たちともすっかり顔見知りになっており、何も言わずともいつもの製品を出してくれた。
この町は都会でもなく田舎でもないごく普通の町で、都の方から働き口を探して流れてくる人も多く、地域に根付いた共同体が形成されていないのが良いところだった。
よく言えばよそ者に優しい。
悪く言えば皆、他人に興味がない。
そんな町だ。
「あっ、お兄さん。見たことあると思ったら少し前に青い首飾りを買ってくれた色男じゃないか」
質屋の前で店主に声を掛けられる。その節はお世話になった。
「恋人は贈り物を喜んでくれたかい?」
「恋人?」
「あれ、てっきり恋人に渡すのかと思ってたよ。すごい大切そうに持って行ったから」
実はまだ首飾りを糸に渡せていなかった。贈り物を渡すのはこんなに気恥ずかしいことなのかとその時初めて知ったのだ。
「今日もその子に贈り物かい?いい品が揃ってるよ」
店主は誇らしげに言う。ふと目を通すと、あることに気がついた。
「・・・俺が置いて行った首飾り、誰かが買ったのですか」
青い首飾りと交換した、王族の男子のみがつけられる“七二”と刻まれた首飾りが商品の中に見当たらなかったのだ。
「ああ、ちょうど今朝、仮面被った変な男が買っていったよ。すごい食いつき様でね、これを置いて行った男はどんな男だったか、なんてそんなことまで聞いて来た」
背筋に冷たいものが走る。
「・・・それで、何と答えたのですか?」
「お兄さんのこと全然知らなかったからさぁ。ほら前、ここに来た時お兄さん、花野医院の娘さんと帰って行ったでしょ?だからその子に聞けば分かるかもよって答えといたよ」
「じゃあその男は?」
「花野医院に向かって行ったよ。怪我だらけで患者さんっぽかったからもういないかもって不安だったんだけど、まだこの町にいて安心したよ!彼は知り合いか何か?」
「すみません、もう行かないと」
慌てて走り出す。嫌な想像が、現実味を帯びてくる。
ゼファに、見つかってしまったかもしれない。
息をするのも忘れて走った。
糸が、みんなが、危ない。
花野医院に着く。あたりは静かだった。
意を決して中に入ると、マントを着た男が糸に話しかけているところだった。
我を忘れて飛びかかった。
背の上に乗っかり、手を押さえると男は呻き声を上げて抵抗する。顔を隠す仮面を被っていた。
「ここの者たちは俺とは関係ない。殺すなら俺を殺せ」
「ちょっと、一之助、何してるの?!」
糸が止めに入る。
男はどうやら怪我をしているようで、抵抗してくるものの力は弱い。
「俺だよ」
呻き声とともに男がそう呟く。その声に聞き覚えがあって、こちらも押さえ込む力を弱くする。
脱力しきった男の仮面を恐る恐る剥ぐ。
「・・・シュウ?」
自分の目を疑った。血を垂らして生気を失っているが、確かに生まれ故郷で共に育った友の顔だった。
「探したよ、イチノスケ」
そう言ってシュウは力無く笑う。
40日ぶりの友との再会だった。