1.始まり
承応2年。
貧しい農民のもとに、獣の姿をした赤ん坊が生まれた。名を信丸という。
毛深い焦茶の体に、鋭く光る赤い眼。
その姿はまるで、狼であった。
人々は神の怒りがもたらした呪いだと赤ん坊を恐れ、遠ざけた。中には殺そうとする者もいた。
両親はそれでも我が子を守り、愛し続けた。
信丸が6歳の時、彼は人間へと姿を変えてみせた。
赤く光る切長の目を持つ少年の、あまりの美しさに人々は己慄き、今までの迫害を土下座して詫びたのだと書物には記されている。
信丸は神の子に違いない、私たちを試していたのだと人々はそう噂した。
狼へ変身する姿を見たいと毎日大勢の者が彼の元へ押しかけた。信丸の両親は貧しかったが、優しく強い心を持っていて、彼を多額のお金で買いたいと言い寄ってくる者たちには靡かなかった。
それでいて信丸に今までと変わらず、普通の子と同じように接し、狼の姿も人間の姿も、息子の全てを愛していた。
狼へと姿を変える子供の噂は都まで広がり、預言者の多くが彼の将来をこう予言した。
『やがて国を統一する武士となる』
『世界に名を馳せる王となる』
予言は様々であったが、当時の有権者たちはその存在を恐れた。
彼が大人になる前に、本当の強さを手に入れる前に、処分するべきだと主張する武士もいたが、まだ子供であるが故に反対の声が多かった。
信丸は動物と話せた。
彼は成長するにつれ、自身が他とは違うことに気付いていた。
それでも日々、山で動物たちと遊ぶことに信丸少年は夢中だった。いつも鳥と会話し、畑仕事の途中でも狼の姿になり犬たちと遊び、両親をよく困らせた。
そんな信丸は大人になると父の畑を継いだ。各所からの声掛けには応じず、自然を愛し、家族を愛した彼は両親譲りの心優しい男に成長していた。
町で困っている人がいれば手を差し出し、力仕事には進んで名乗りをあげた。皆が怖がらないように、狼へと姿を変えることもなかった。その辺りの住民にとって彼は選ばれし神の子であり、愛すべきヒーローだった。
そしていずれ、1人の女性を想うようになる。名は松乃。
一流武士・重盛の娘で、美しく強い心を持つ女性だった。2人は愛し合っていたが、重盛は信丸を気に入らなかった。
神の子、と呼ばれる彼が義息子となり、自分の座を狙うのではないかと恐れたのだ。
というのも、信丸は決して力を見せびらかさない素直で真っ直ぐな青年で、重盛の部下は皆彼を気に入った。
神の子を恐れるのは重盛のような上層部の人間だけで、彼ら以外は皆信丸を崇拝し、讃えていたのだ。
もし自分の座を狙われたら、取られてしまう。
そんな焦りが確かに重盛にはあったのだ。
それでも松乃は諦めなかった。信丸の妻になることを望んだ。
重盛は信丸が自分の立場を狙うが故、松乃に言い寄り、松乃は騙されたのだと信じて疑わなかった。
信丸はその存在だけで認められ、全ての人に信頼されている。対照的に自分は敵が多く、味方だと思っていた者にも陰口を叩かれている。裏切る者たちもたくさんいる。
特別な力を持つ信丸への嫉妬心が重盛にはあった。
そんな優しい笑顔を振り撒いておいて、裏では私を貶めようとしているのだろう?
松乃を愛す振りをして、本当はたまらなくこの私の座が欲しいのだろう?
早く本性を出すといい、そう思って強い言葉を信丸に浴びせた。
「獣に娘はやらん。早く山に帰れ」
信丸は赤い眼をぎらつかせた。
そうだ、そうやって狼へと姿を変えて襲ってくるがいい。人々はやっと気づくはずだ。神の子ではない、悪魔の子だと。
ちょっと怒らせただけで襲ってくる恐ろしい男だと。
それでも信丸は決して狼へと姿を変えなかった。
「娘さんの前では、二度と狼にはなりませぬ。牙や爪で、彼女を傷つけることがあってはいけないですから」
そう言って松乃を想い、笑ってみせた。
その純粋さが余計に重盛を苛立たせた。笑顔を向けるな。私を下に見るな。この私が1番であり、お前に力はない。
重盛の憎しみに似た感情は膨張し、間違った方向へ進んでいく。
自分の力を見せつけるために、信丸の両親を殺したのだ。
信丸は激怒した。家族と松乃が何より大切な、愛に満ちた男であった。
なぜそこまで重盛が自分を嫌うのか。自分のせいで両親が殺されなくてはならなかったのか。
信丸は狼の姿へと姿を変え、我を忘れて重盛のもとへと走った。
刀を持つ家来たちの間を駆け抜けていく信丸の姿は、それはそれは恐ろしかったという。
殺してやる。自分の両親を殺した重盛に復讐してやる。
今まで感じたことのない強い憎しみが信丸を纏い、完全に我を失っていた。
重盛のもとへ向かうと彼は薄気味悪い笑みを浮かべていた。
「どうした。松乃の前では狼にならぬと言ったではないか」
重盛の隣に立つ松乃は今にも泣きそうな顔をしていた。
それは自分の姿が怖いからか、父が信丸の両親を殺してしまったことを申し訳なく思ったからか。
どちらにせよ信丸の動きを止めるには十分だった。
「何も言えぬか。松乃、こいつの顔をよく見ろ。これがこいつの本当の姿だ。鋭い牙でお前を襲うやもしれんぞ」
松乃は涙を流した。信丸はそのまま進むことを躊躇した。
「どうした松乃。愛する男の姿が泣くほど恐ろしいか」
「父上!」
松乃の声が響いた。
「松乃は、信丸殿の全てを愛しております。父上があんなに酷いことをしたというのに、信丸殿は変わらず私を愛してくれるでしょう。松乃もまた同じように、信丸殿の全てを愛すると決めたのです」
信丸はハッと我に返った。覚悟を決めて進むと、その気迫に重盛は後ずさった。
狼の姿から人間の姿へと戻る。
畑仕事を生業としているようには到底思えない真っ白い肌に、燃えるような赤い眼が、重盛を強く惹きつけた。
「重盛殿、私はあなたが憎いです。私の唯一の両親を殺したこと、一生許しませぬ。ここへ来たのも、あなたに復讐するためでした」
重盛は目を見開く。松乃は悲しそうに俯いた。
「でも、あなたのことは殺しませぬ」
「なぜだ」
「私が両親を殺されたら悲しいように、松乃もたった1人の父であるあなたが殺されたら悲しいでしょう。私は、愛する者が泣くのは、見たくない。松乃の幸せを願うております」
松乃の顔に静かに涙が落ちる。
「私がそんなに嫌いでおられるなら、松乃とは結婚しませぬ。そもそも、松乃のようなお方に好意を抱いて頂けたこと自体が、貧しい農民である私にとって奇跡でございました。もう何も望みませぬ。どうか、私の気持ちが変わる前に、あなたを殺してしまう前に、遠い島へ流してください」
頭を下げる。信丸の顔は涙でぐしゃぐしゃであった。
松乃の悲しい泣き声が響いた。重盛は黙り込んだが、やがて声を掛けた。
「三波島へ流す」
「父上!」
信丸は床に頭をつけたまま、お礼を述べた。
「松乃も共に流す」
驚いて顔を上げる。松乃も同じであった。
「お前が私を殺そうとしたから流すのではない。お前が近くにおっては、私はまた間違いを犯すだろう。お前の能力と寄せられる信頼が、羨ましかった。お前を妬んだ。だがおかしかったのは私自身だ。君の大切な両親を殺したこと、申し訳なく思う。すまなかった」
重盛は頭を下げた。
「ですが松乃もというのは」
「お前を三波島へ流すが、松乃も一緒におる。私と会うことはもうないだろう。2人で、幸せに暮らすといい。結婚を認めると言うておるのだ」
松乃と信丸の表情に喜びが溢れる。
「ありがとうございます。」
こうして、2人は本島から遠い三波島に流された。
そこで2人は子を産み、その子供もまた、獣へと姿を変えられた。その子も子を産み、その子供も子を産み、そうして「動物へと姿を変えられる子」-獣人は数を伸ばしていった。
皆狼へと姿を変えるのではなく、姿を変える動物の種類は増えていった。
800年経った頃には獣人だけの国、獣国が島に出来上がっていた。人間界とは800年前の名残から関わりがなく、人間は獣人を恐れていた。
初代・獣王である信丸に向けられたような崇拝の気持ちではなく、獣の姿をした野蛮な化け物だと人間は見たこともない獣人をそう揶揄した。
獣人もまた、人間は自分達の祖先である信丸を追い出し、獣を食べる恐ろしい生き物だと子供たちに話していた。
三波島から本島には橋も何もなく、物資を運ぶ数少ない船が稀に渡るだけ。
ほとんどの人間が、獣人を見たことがない。
同じようにほとんどの獣人が、人間を見たことがない。
信丸と重盛の衝突が生んだ奇怪な世界が、確かにそこに存在していた。