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 陽も落ちて、皆の夕餉も済んだ頃。

 一人用の小鍋に取り分けたスープと、いくつかの必要なものを入れた袋を持って、アクロは少年の元を訪れた。

「……起きてたか」

 (うろ)を覗き込めば、暗がりの中、先程と同じ体勢でこちらを見据える金の双眸とかち合う。

 相変わらず不信感たっぷりだ。

 そしてその中には確かに、初めにはなかった怯えが含まれてしまっていた。

 じりじりと焼けるように痛む良心。

 だがアクロは苦笑ひとつでそれを飲み下し、手頃な石で簡易なかまどを組む。

 おこした火に鍋をかける頃、ちらりと視界を掠めるものがあった。

 雪だ。

 降り始めは夜半頃になると予測していたが、思ったよりも随分早い。上空の風が強まったのだろう。

「少年、その中、すきま風は入らないか?」

 返事は、やはりない。

 最初にこの場所を少年の寝床にする際確認をしたから、大丈夫だとは思うのだが。

「念のため何枚か布を持ってきたから、もし風が通るような場所があれば詰めておけ。それと毛皮も、足りなかったらこれを使うといい」

 持参した袋から取り出したそれらを虚の入り口に置く。

 それから、入り口上部に引っかけた吊り香炉。

 これはルードの拠点でも使用されている魔物避けだ。人間の鼻では少し独特な匂いを感じる程度だが、これを魔物はひどく嫌がる。常に側にいられるわけではないから、必要なものだ。

 中身を新しいものに換え、元に戻した。

 鍋を見れば、頃合いだろう。野菜を柔らかく煮込んだスープがくつくつと音を立てている。木皿によそい、匙を入れて少年に差し出す。

「温かい内に食べなさい。食べられるだけでいいから」

 少年はふいと顔を逸らした。

「……はらえる、ものなんて、ない」

 その様子は拒絶している、というよりも、必死で拒絶しようとしている、ように見えた。

 顔を背けたのは、食べ物を視界に入れないための細やかな抵抗か。

 心情がどうであれ、体は食料を欲しているのだ。

 ぎゅっと引き結ばれた唇は、その奥であふれているだろう唾液をこぼさないようにと懸命でいじらしい。

 さて、対価など必要ないと言うのは簡単だ。

 だが少年はそれでは納得しないだろう。

 盗むことは出来るのに、与えられることは出来ないとは、どうにも難しい性質だ。

 しかしそれなら、とアクロは思いつきを口にする。

「なら、君の名を教えてくれないか」

 先程は答えて貰えなかった。だから、対価としてなら、どうか。

「……わすれた」

「うん?」

「クソッタレに、つけられた名前、なんて、よばれたく、ない。わすれた」

 少年はしかめた顔で、苦々しく吐き捨てた。

 名をつけた相手なら、親か、それに類する者だろう。

 与えられた名を呼ばれたくない程厭うのなら、少年の不条理はその者に起因するのかもしれない。

「では、私の名を呼んでくれ」

「は……?」

 少年にとって名が厭わしいものなら、それは仕方がない。呼ばれたくない名は、呪いでしかないだろう。

 だがノマの民にとって、名は特別なものだ。

 自己を確立する初めの一歩であり、肉体と魂との繋縛であり、ノマとオルシュアをつなぐ縁由でもある。

「私は、君に呼んで欲しい。アクロだ。呼んでくれ、それを対価としよう」

 少年は困惑しているようだった。

 いまだかつてされたことのない要求だったのだろう。そんなものが対価になるのかと顔に書いてあるようだ。

 少しの間あちこちに視線を泳がせていた少年は、やがて探るように男を見る。

「……ア、クロ……?」

「────ああ、」

 少年は、そろりと伸ばした手でパッと木皿を攫っていった。

「ぁっ、つ!」

 片腕だけでの所作だったせいか、乱暴に扱われたスープは当然、木皿から飛び出してしまう。

 アクロは虚に体を滑り込ませ、ぶちまけられる寸前だった木皿を取り上げた。

 少年は硬直している。

 ……また、やってしまった。折角名前を呼んで貰えたのに。対価だが。

 ちょっと遠い目になる。

「あー……火傷してないか」

 硬直したままの彼の左手を取り、スープがかかっただろう指先を確認した。

 目で見る限りは、問題なさそうだが。

「痛い?」

 聞けば、ほんの小さくかぶりを振る。

 震えていると言われればそのように見える程だったが、恐らく、多分、首を振ったのだろう。

 アクロは少年の手に木皿を持たせ、自分は彼の横に腰を下ろした。

 最初は出ていこうと思ったのだが、この際だ。

「君はどうにも危なっかしいから、ここにいさせて貰う。私に出て行って欲しかったら、慌てず騒がず、落ち着いて食事をするように」

 どのみち少年には、食事が終われば用がある。

 片腕が使えない彼が危なっかしいのも本当なので、ならばともう開き直ってしまった。

 胡座をかいて、腕を組む。不動の構えである。

 少年は、暫く木皿を抱えたまま硬直していたが、男に動く気配がないと悟るとおずおずと木皿を持ち上げ、口をつけた。

 一口。

 含んで、少年はまた固まってしまった。

「口に合わなかったか?」

 心配になって顔を覗き込む。

 覗き込んで、後悔した。

 少年は、大きな目を見開いて。 

 はらはら、はらはらと。

 涙を。

「おいしい」

「……そうか」

 見てはいけないものを見てしまった気がして視線を逸らしたアクロは、上がりかけた自分の手に気付く。

 頭を撫でてやりたかったのか、涙を拭ってやりたかったのか、抱き締めてしまいたかったのか。

 多分、その全部だ。

 痛みにも、恐怖にも、涙を流さなかったこどもが、食べ物が美味しいと言って泣くのか。

 少年に気付かれないよう大きく息を吐き、アクロは腕を組み直す。


 彼は慰めを求めていない、余計なことはするなよと、自分の腕に言い聞かせた。



 ◇ ◇ ◇


 人前で、泣いたのなんていつ以来だろう。

 ぼんやりする頭で少年は思い出そうとするが、そんな記憶はどこにもなかった。

 覚えている限り、誰かの前で泣いたことなんてない。

 そもそも、泣くこと自体が久しぶりだった。

 涙は、弱味だ。

 痛くても、苦しくても、怖くても、弱味だけは、誰にも見せない。

 そう決めていた。

 少年は、強くなければならなかった。

 妹のためにも、自分のためにも。

(なのにまさか、スープがおいしくて、なみだが出るなんて、思わないじゃないか)

 苦痛には耐えられる。

 来るとわかっていれば、備えられる。

 だがこんなことに対する備えなどなかった。

 涙はとうに止まっていたが、泣いたせいでまた熱が上がったらしい。一度眠って少しは回復した筈なのに、頭も体も、重たくて仕方がなかった。

 ぐらぐらと揺れる視界、平衡感覚がなくなり、座っていられなくなる。

(スープ、こぼしちまう……)

 「────っおい、」

 とす、と。額が何かにぶつかった。壁でも、地面でもない。

 殆ど力の入らない手から木皿が遠ざかって、少年は無意識にそれを取り戻そうと手を伸ばす。

「大丈夫だ、また持ってくるから、今は少し我慢してくれ」

 唇に無機質なものが触れて、とろりとした液体が流し込まれた。

「ゲホッ、ゲホッ、ぅえ……」

「我慢だ、少年」

「にが……にがぃ……ゃだ……」

「薬だからな。熱と痛みを抑える。飲めば少しは楽になるから、頑張れ」

「うぅ……っ」

 流し込まれるものがあまりに不快で少年は首を振って逃れようとするが、頭をしっかりと固定されて叶わない。

 その上口に何かを突っ込まれこじ開けられるせいで、口を閉じて拒否することも出来なかった。

「よし、よく頑張った。ほら、口直しだ」

 また口に何か近付けられる。

 今度は邪魔するものがなかったから、ぎゅっと唇を引き結んだ。もう絶対に開けたくない。

 頭の上で、ふ、と空気の抜ける音がする。

「甘いもの、嫌いか?」

 唇を少しだけ捲られて、擦り付けられた。それが舌に当たり、少年はひくりと体を震わせる。

 甘い。

 甘いもの、なんて。花の蜜くらいしか口にしたことがない。

 それは、花の蜜よりずっと甘かった。

「……? ……?」

 再度近付けられたそれに、少年は恐る恐る口を開ける。

 唇の隙間にするりと差し込まれた、多分、木匙。甘いものを纏っている。

(あまい……おいしい……)

 夢中になってしゃぶりついていたら、それはすぐになくなってしまった。

 口から木匙を抜き取られ、残念に思っていると「また、薬の後でな」と声がした。



 それから先のことは、少年はあまり覚えていない。

 目覚めたのは早朝。周囲は雪が積もっていて、少年は柔らかい毛皮に包まれていた。

 アクロの姿はなかったが、少年の手には彼が纏っていただろう土色の外套が握られていて。

 彼の前で泣いたことと、断片的ではあるが彼に晒した醜態を思い出し、青ざめたり赤面したりと忙しい朝を過ごすことになった。



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