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 アクロ。

 アクロだ。

 どうして。

 ルードの旅立ちを見送ったのは、つい二日前のことだ。

 その日の内に森を抜けると言っていた彼らは、今頃新しい土地で狩りをしている筈だった。

 次期酋長であるアクロも、そうだ。

 それなのに、アクロが、ここにいる。

 どうして。

 理解出来なかった。



 服飾屋から連れ出されたルカは、強く腕を引くアクロの物言わぬ背中を必死で追った。歩幅が違う上に足早に歩くものだから、ルカは殆ど走っていたようなものだ。

 そうしてたどり着いた一件の宿に、アクロは無言のまま入っていく。宿の主らしき初老の男が少々驚いていたが、既に利用の手続きは済んでいるのか特に止められることもなかった。

 ある一室に押し込まれ、ルカは漸く腕を解放される。

 アクロは閉じた扉を背に、俯いて動かなくなってしまった。

 終始、無言。

 仮面はないが、外套の頭巾を目深に被っているせいで表情がよく見えない。

 よく、わからない。

 アクロがここにいる理由も、何も言わない理由も。

 何もわからなくて、不安になる。

「ア、アクロ……?」

 捕まれていた前腕には、多分、彼の手形が残っただろう。出会ってから、あんな風に乱暴に扱われたのは初めてだった。そのことも、不安に拍車をかける。

 これは本当にアクロなのだろうか。

「アクロ……なあ、何でいるんだ、ルードは、どうしたんだよ、それに、か……仮面、つけなくていいのか……」

 反応はない。

 もっと近付いて、側で見上げれば、頭巾の影になった表情もわかるのだろうが、ルカにはそれを確かめる勇気がなかった。

「なあ、何で、何も言わないの、何か怒ってる……? ナ、ナイフは売ろうとしたわけじゃないよ、ながれで、見せただけで……み、見せるのも、ダメだったなら、ごめん、知らなくて……アクロ? ねえ、……お、おこんないで……」

 目の前の男の態度が、自分の知るアクロとは違いすぎて、怖い。

 懇願の声は、震えてしまった。

 その声に男はギクリと体を強張らせ、漸く顔を上げる。

 仮面のない顔。目鼻立ちの整った、ルカが知る顔だ。

 アクロ。

 本当に、アクロだ。

 きっともう会えないだろうと覚悟を決めて見送った、大好きなひと。

「…………怒って、ない」

 彼は青鈍色の目に動揺を浮かべたまま、視線を彷徨わせる。

「すまん、ちょっと待ってくれ、言いたいことが、沢山あった筈なんだが、今、思いもよらない事実に気付いて、全部吹っ飛んだ、待ってくれ、整理してるから」

「……おこってない……」

「勿論。……ああ、立たせたままですまなかった、おいで」

 アクロはルカの肩をそっと押して、部屋の奥へと導いた。ふわりと甘やかすように丁寧に扱われて、いつものアクロだと、ルカは密かに安堵する。

 奥といっても、安宿の一室だ、部屋は狭い。すぐに一台きりの寝台に突き当たる。

 彼は寝台の縁に腰を下ろし、その隣をトントンと叩いてルカを招いた。

 ルカは妙に落ち着かない気持ちになりながら、恐る恐るアクロの隣に座る。


 ふか。


「────っ?」

 慣れ親しんだ寝床よりずっと柔らかい。

 その不安定さに驚いて、咄嗟にアクロにしがみついてしまった。

 ギッ、とアクロの体が不自然に固まる。

 怪訝に思って見上げると、眉間に深い皺を寄せ固く目を閉じていた。

 待っていろと言われたのに邪魔をしたから、今度こそ怒ったのだろうか。仮面をつけている時よりも表情はわかりやすいのに、その真意が読み取れなくて、また不安になってくる。

 これ以上邪魔をしないようにと手を離そうとするが、離れきる前にその手は捕まってしまった。更に肩を抱かれアクロの胸にぎゅうと閉じ込められてしまう。

 怒っているわけでは、ない?

 困惑していると、耳朶に熱を含んだ呼気が触れた。

「この周辺地帯の外域で、生態系が崩れ始めている」

 耳を押さえてしまいたかったが、吹き込まれた内容の深刻さに、抗う動きの一切を止めた。

「発端は恐らくスムーの激減だろう。スムーが減りピュリエンが増え、まずは洞窟内の均衡が崩れた。それが徐々に外界にも波及し、冬眠から覚めた獣らにも影響を与えている。あの地で行った最後の狩り、大猟ではあったが、獲物らはみな痩せていた。食料が足りていないんだ。獣らは気が立っている。今後この近辺の警戒水準は引き上げられるだろう。今はまだ未確定だが、将来的には他地域へも影響が現れると見ている。街や都市間の移動が、これまで以上に過酷なものになる筈だ。ルカ、私を連れていってくれ。既に君は、一度ダグの犠牲になりかけた。二度はさせない」

 一度に喋りきったアクロは、長く深い息を吐く。

「以上が、現状の説明と、建前だ」

「え」

「次に、本音を言わせて貰う。かなり情けないことを言うぞ、覚悟してくれ」

「ぅ……うん?」

 ゆっくりと、名残惜しげにルカを離したアクロは、その細い腕に己の指の跡が残っていることに気付き眉をひそめた。

「……痛かったか」

「痛みは、別に、どうってことないけど……何も言わないから、ちょっと、こわかった」

「……すまない、本当に……」

 アクロが本気で握れば、ルカの腕など容易く折られてしまうだろう。そうなっていないのだから、気にすることはないのに。

 アクロは壊れ物に触れるように、そうっと指先で跡をたどる。

「君が、何と言おうと、やはり私は君といたい。君と離れて、二度と会えないかもしれないのだと思ったら、その日の内に耐えられなくなった。長殿には、『丸一日ももたなかったな』と笑われた。仮面をかぶらなくてもいいのかと聞いたな、あれは、長殿の前で割ってきた。ルードには戻らない」

「……そ、んな……そんな……っ」

 頭を、鈍器で殴られたような衝撃だった。それこそが、ルカがアクロに、一番して欲しくないことだったのに。

 しかしアクロは蒼白になったルカの顔を覗き込み、辛抱強く言い含める。強張る頬を宥める手のひらは顔を背けることを許してはくれない。

「違うんだ、ルカ、そんな顔をしないでくれ。彼らを捨てたわけではないよ、私は、私の生きる場所を選んだに過ぎない。選ばなかった方を捨てたとは思ってないんだ。離れていても、変わらずに思っていられるのが家族なのだと、背中を押してくれたのは彼らなんだよ」

「けんか……ケンカしたり、とかは」

「ない。みな笑って送り出してくれた。少々不貞腐れている子供らもいたが」

 あれは単にルカに会いに行けることを羨んだだけだな、とアクロは密やかに笑った。

「君と生きたい。君が要らないと言っても、私には君が必要なんだ。忘れろなんて、言わないでくれ。すきだと、言ってくれたじゃないか……」

 しとしとと降る雨のように、やわく染み入る声が許しを乞う。けれどルカはどうしても、自分に、そんな価値があるとは思えなかった。

 滲む熱が心の奥底まで届いてしまう前に押しとどめなければ。

「おれは、アンタを一番には考えられない」

「構わない。拒絶しないでいてくれるだけで、十分だ」

 押しとどめなければ、いけないのに。

「……どうして、そこまで……」

「……その理由は、あの服飾屋の店主が、全部言ってしまったな」

「え?」

「いや、正確には、あの店主に指摘されて自覚したというか……自覚もせずにクルトゥを渡したとは、顔から火が出る思いだ……」

「……クルトゥ……」

「考えてみれば、単純な話だった。確かにあれは、容易く人に託すものではない。けれどあの時、君にクルトゥを渡すことに躊躇はなかったし、今も、一欠片の後悔もない。……つまりその、私は君に、名を、渡したかった」

 ふと、暗闇の中仄かに光る瞳を持った、大きないきものの姿が脳裏を掠める。

 それが『何』なのかと思考する間もなく、ソレは、口をついて出た。


「『アクルローフェ』……?」


 彼の目が、見開かれる。

 呼吸を止める程の驚き、その頬が徐々に紅潮して、双眸が、とろけた。

「あぁ……」

 何故、その名を呼んだのか。

 何故、その名を知っているのか。

 どこか、どこかで、その名を聞いた気がした。誰かが彼を、そう呼んで。

 彼を、彼だと思った。

「ああ、そうだ。アクルローフェ、それが私の精名だ」

 彼の震える手のひらが、ルカの頬を包み込む。ひどくやわいものに触れるように、けれどもっと奥深くに触れたいと叫ぶように、指先が髪の中に潜り込み、くしゃくしゃに掻き乱される。

 気持ちいい。彼の硬い指先が、さらりとした手のひらが、触れている場所からとけて崩れてしまいそうだった。

 気付けば吐息が触れる距離に彼の顔があって。彼の目が、綺麗な青鈍色が、涙を湛えて揺れている。

「もう一度、もう一度呼んでくれ、ルーカイシュカ、私の名を」

 乞われるまま、微かに震える唇で再び紡いだ彼の名は、彼自身の唇に飲み込まれ、ふわりとした余韻だけを残して、消えた。





 ◇ ◇ ◇


『アクルローフェ』

 果てのない暗闇の中に瞬く、星雲の瞳。

 瞳の先には、大きな体をくるりと丸めて眠る、竜の姿。

 女神オルシュアには、孤独がわからない。

 彼女のまわりには常に数多の星々が煌めき、同じだけの愛し子が囁いている。姿なき精霊たちは騒々しく、塵界は忙しない。

 この、竜の姿の愛し子は、いつからここにいただろうか。

 ずっと前からいた気もするし、まだほんの少ししか経っていない気もする。

 女神オルシュアに時間の概念はなく、瞬きひとつする間に数百の時を越えることもあれば、不確定に遡ったりもする。

 女神オルシュアはどこにでもいて、どこにもいない。ゆえに不変の神であり、無形の偶像なのだ。眼球の姿を取ることが多いのは、目で見る生物への、ささやかな羨望があったのかもしれない。

 女神オルシュアは遥か昔から、それこそ、女神と呼ばれるよりもずっと昔から、循環する生命の煌めきを見守っていたのだから。

 女神はそっと、眼球を閉じた。

 代わりに暗闇からずるりと這い出したのは、半透明の、巨大な手だ。関節はないが、人のそれを真似ている。

 人の手の形は、便利だ。ものを掴むことも出来るし、器にすることも出来るし、愛し子を慈しむことも出来る。

 尤も、それらの用途に使用したことはないのだけれど。

 巨大な手は、眠る竜の背に、そっと触れた。

 人の子が、子猫を撫でるようなぎこちなさで、ぬらりぬらりとそれは流動する。畳まれた翼がひくりと震えるが、竜が目を覚ます気配はない。

『ルーカイシュカ』

 丸くなった竜の胸元には、守るように囲い込まれた小さな火種がころりと転がっていた。とろとろと頼りなく揺らめくそれは、黒い鱗をそうっと照らしている。

『ふ、ふ』

 わん、と響く多重の声が、愉快そうに震えた。

『そうだな。そうしていれば、凍えることもないだろう』

 竜と炎は、穏やかに眠っている。


 竜から離れたオルシュアの手は闇の中にその輪郭を滲ませ、やがてただの闇へと還っていった。




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