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痛々しい表現あり。
「ルカ!!」
目を覚ますと、赤い視界の向こうにいる人影が何かを必死に叫んでいた。
耳鳴りが酷い。
頭が割れるように痛む。
頭蓋の中に虫がいて、脳を食い荒らしているような不快感に吐き気が込み上げたが、咳き込むばかりで吐き出せるものは何もなかった。
体が熱い、息が上手く吸えなくて、喉を掻き毟る。
ぼた、ぼた、目、鼻、口、耳、顔中の穴から何かがこぼれ落ちていく。それらが血なのだと理解する前に、全身を走り抜ける痛みに絶叫した。
「ぎ、ぃあ、ぁあああッ!! がっ、ごぼっ、ごぽっ、ぐ、ぅゔゔ……ッ!!」
からだが、うちがわから、ふくれあがっている。
全身から、ブチブチと肉の千切れる音がする。傷がある右肩を中心に、皮膚が裂け血を吹き上げながら膨張した肉が覗いた。
じぶんのからだに、じぶんのからだがひきさかれている。
「ルカ、しっかりしてくれ、ルカ!」
誰かが呼んでいる。
裂けた肩を強く抱かれ、仰け反る顎を捉えられた。強引に塞がれた口から、何かが流れ込んでくる。それは僅かに、痛みを和らげた。
「ふ、ぅ……あ゛……」
しかしそれも一瞬だった。
ビキ、右頬が罅割れる痛みに全身が硬直する。内側からの圧、そこから、何かが生えてくる。
「ルカ、駄目だ!!」
ミシッ、膨張を続ける肉の更に内側から、皮膚を押し退け現れた、それ。
鱗だ。石のような、鱗。
「ルカ……ッ」
ひとつを皮切りに、爆発的な勢いで生成される鱗が。
────ブチュッ。
「ぎ……ッッ!!」
「ルカ!!」
柔らかい眼球を潰した。
「待ってくれ、行かないでくれ、ルカ、そっちへ行ってはいけない、お願いだ、戻ってきてくれ、ルカ、ルカ……!!」
潰れた目と鱗の生えた頬を手のひらで包み、その誰かは、何度でもルカの唇を塞ぐ。幾度めかで、それが口付けなのだと気付いた。
「ぐ……ぅ、ゔゔっ」
「今だけだ、ルカ、今だけ、堪えてくれ、文句なら、後でいくらでも聞くから」
食い縛っていた歯列は強引にこじ開けられ、そこから液体を流し込まれる。
血、だろう。
「ふ……ぅあ……ぁ……」
痛みに薄ぼんやりとした意識の片隅で、それが今の自分に必要なものだと本能的に理解した。
流し込まれるそれを、こくり、こくりと嚥下する度体の変化が緩やかになっていく。
他人の体液を飲まされているというのに、不思議と不快感はなかった。
残された片目に、ぼやけた男の顔が映る。仮面のない顔。青ざめて、苦しそうに歪められた顔。ぎゅっと寄せられた眉、その下の、青鈍色。
相手が、この男、だからだろうか。
「頼む、止まれ、頼む……!」
唇を合わせたままの懇願。
男の体はルカから生えた鱗により切り裂かれている。それでも離すまいと強く抱き縋る腕。
そんなふうに、心を痛めないで欲しい。
自身を責めるような顔を、しないで欲しい。
こんなのは、誰のせいでもないのだ。
失っていく血と、満たされる血に酔うように、ルカはとろりと目蓋を伏せる。
痛みが遠くなり、急激な眠気に襲われた。体は休息を求めている。
気付けば、口腔内を満たしていた血の味はなくなっていた。
男のものも、自分のものもだ。
出血が、止まっている。
体の変化も。
ボロ、ボロ、と。脆くなった鱗が崩れ落ちていく。替わりの鱗が、生えてくることもない。
ざらりと、全身を煮え滾らせた不快な灼熱が引いていった。残ったのは、負荷がかかった体に起こって当然の熱と、気怠さ、そして拍動に合わせたかのような重い鈍痛。
「ぁ……く、ろ……」
合わさった唇の隙間から名を呼べば、アクロは弾かれたように体を離した。
「ルカ……?」
気遣わしげに、顔を覗き込んでくる。大きな手が頬を撫でた。罅割れ、鱗に突き破られた皮膚は醜く歪んでいるだろうに、アクロに躊躇う様子はない。
「止まった、のか、変容が、始まっていたのに...…」
何度も頬に触れ、そこに新たな鱗が生まれないことを確認する。しつこいくらいに確認しても、まだ不安そうにしている手に、ルカは自ら頬をすり寄せた。
好きなだけ、触れればいい。
アクロなら、いい。
彼の前から消えて、忘れ去られてしまうことすら望んでいるのに。今だけは、今くらいは、甘やかしても許される気がした。
それは彼を、なのか、或いは自分自身を、なのか。
「あくろ……目、いたい……」
「……っそう、だな、痛いよな、かわいそうに……」
「いたぃ……」
「うん、うん、すぐ雪洞に戻ろう。痛み止めが、まだあるから」
ルカの体を、そっと抱き上げたアクロの顔は確認出来ない。それでも。
アクロの肩が震えていることは、わかった。
声を詰まらせて、多分、アクロは泣いている。例え涙はなくとも、泣いているのだろう。
はらはら、はらはらと、木の葉を落とす大樹のように。
嗚呼、と。
ルカは熱に浮かされた溜め息を吐き出した。
彼の目の前で消えてしまわずに済んで、きっとよかった。
「あくろ……」
呼びかければ、「うん……?」と返ってくる。優しい声。けれど間があった。平静を取り繕うための間。取り繕った声も、震えているのに。
嗚呼、やはり自分は、この男に弱い。
仕方がないだろう、だって、すきなのだ。
泣きたくなるくらい、このひとがすき。
アクロから与えられる情が、家族間のものであっても構わない。もっと言えば、誰にでも与えられる平等なものでいいのだ。特別じゃなくていい。
ただ自分がそれを受け取って、大事に、胸にしまっておくだけだ。思うだけなら、誰にも迷惑をかけないだろう。
凭れかかった肩。自分よりもずっと逞しいそれを抱き締めてやりたかったが、体は思うように動かない。役立たずの腕を使うことは諦めて、その肩に額をすり寄せる。
「ただいま、あくろ……」
息を飲む、気配があって。アクロはとうとう、立ち止まってしまった。
「あぁ、おかえり……おかえり、ルカ……」
罅割れた体を抱くには強い力。声を殺して泣く男に、ルカは痛いとは言わなかった。
縋りつく男の胸に全身を預け、ただ、生きているな、と思った。
◇ ◇ ◇
本当は、本当に、源洞の泉にルカを沈めるつもりで向かっていた。
例えオルシュアの教えに反しても、彼の魂を、誰にも渡したくなかった。
オルシュアにも、来世の彼にもだ。
だが源洞に着いた瞬間、彼に、呼ばれた気がした。
まさか、と思った。
彼の心臓が動いていた。
か細く呼吸をしていた。
泥のように重く濁った思考をかなぐり捨てて、手放す筈だった小さな体に縋りついた。
行かないでくれ、戻ってきてくれ、もう一度目を開けて、その声で、私を呼んでくれ。
唇を噛み破り、泉の水を口に含んだ。仮面を脱ぎ捨てそれを口移しで彼に飲ませたのは、そうしなければいけない気がしたからだ。
こんな行為、普通の人間がしたら泉の水に触れた時点でそこから体が崩壊する。正気の沙汰ではない。
アクロの体は、人よりも、魔物に近いのだ。
再認識する事実に傷付く余裕もなかった。
彼を引き留められるなら、何でもいい。仮に代償として、自身の体が魔物に成り果てるのだとしても、男は躊躇わなかっただろう。
血を飲ませた途端、彼の体は雷に打たれたように跳ね、痙攣して、苦しみだす。
皮膚が裂け、体の内側から怪物になろうとしているのが、わかった。
ひとつの鱗が肉を突き破ったのを皮切りに、恐ろしい速さで彼の半身が鱗に切り裂かれていく。彼の、美しい瞳まで。
骨を砕き、筋を千切り、血を啜り成長する怪物。
耐えがたい苦痛だろう。なのに彼は、最初に悲鳴を上げたきり、歯を食い縛り声を押し殺している。そのことが、男の胸を一層きつく締め付けた。
体を削りながら生成される鱗。だが、ダグの時のような崩壊が起こらない。ところどころでホロホロと剥がれ落ちる以外は、圧倒的に生成速度の方が速かった。
そっちは駄目だ、頼む、堪えてくれ。
君は人だろう。がむしゃらに生きてきただけの、ただの人だ。
怪物になどなってはいけない。
まだ、たったの十四だ。
十四年しか生きていないのに、何もかもを悟ったような顔をして、困ったふうにしか笑えない、臆病なこどもなのだ。
こども、なのだ、十四歳は。
体も、心も、未熟でやわらかい、守るべきこどもだ。
こんなふうに、苦しんで終わるべきではない。
耐えてくれ。
彼はまだ、何も知らないだろう。
喜びも、楽しさも、この世界が存外美しいことも、人は人を、愛するのだということも。
彼は知るべきなのだ。
だから、こんなところで、終わってはいけない。
祈りながらのたうつ体を抱き締めて、唇を塞ぎ血を送り込む。彼の鱗が、どれ程この身を引き裂こうと構わなかった。この程度の痛み、彼が感じているだろう苦痛に比べれば、いっそ生温い。
あのまま、抗わずにいれば。
去りゆく彼を引き留めずに、眠らせてやれれば。
否、否、そんなことは出来ない。
例え彼に恨まれようとも、そこにあった一縷の希望を、男は掴まずにはいられなかっただろう。
『私の元から、いなくなるなら、いっそ、消えてしまえば────』
嘘だ。いいや、嘘ではない。あれは紛れもない、男の本音だった。
だがそれでも。それよりも。
生きて欲しい。
生きていて欲しい。
それだけだ。
たった、それだけ。
それだけ叶えば、あとはもう、どうでもいい。彼の未来に、自分がいなくても構わない。
彼の体が、新たな異形を生み出さなくなったのは、どれくらい経った頃だっただろう。
彼は、耐えきった。
か細く、幼い体で、すべての苦痛を飲み下した。
片目は失われ、顔にも体にも、罅のような傷が残ってしまったが、その頬はあたたかい。抱き上げた、小さく震える体も。
嗚呼、彼の、命の熱だ。
生きている。
彼は生きている。
生きて、この腕の中にいる。
すべてを赦すように体を預ける彼が、ただいまと言ってくれた。
涙を堪えるのに失敗したのは、どうしようもない程彼が、愛おしかったから────。