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 そこは、何もない場所だった。

 自分の手も見えない暗闇。暑くもなく、寒くもない。水の底のようだな、とぼんやり思う。

 ここで、何をしていたのだったか。

 考えようとしたが、思考に分厚い膜がかかりどうしても纏まらない。

 ひどく、眠たい。

 このまま目を閉じて眠ってしまいたいような気持ちになるが、それをするのが恐ろしくもあった。何故かはわからない。そうして考えることもまた、分厚い膜の向こうに遠ざかってしまう。

 どこかへ、行きたかった、ような気がする。

 それがどこなのか、何故なのか、何も思い出せない。

 とりあえず足を踏み出そうとして、自分が、立っているのか座っているのかもわからないことに気付いた。手にも足にも、何の感触もない。そもそも自分に、手足はあるのか。それもわからない。

 何せここは黒一色に塗り潰された闇の中だ。

 自分がどんな姿かたちをしているのか、示すものは、何もない。

 どうしたらいいのだろう。途方に暮れていると、ぱちり、と暗闇が瞬きをした。

 瞬き。暗闇が。

 そうとしか思えない程唐突に現れた、青鈍色の大きな瞳。縦に割れた瞳孔が、こちらをじっと見つめている。

 その瞳が仄かに辺りを照らすのかと、自分は漸く気付いた。

 暗闇に溶け込む黒い鱗、それは巨大な岩のような蜥蜴獣(トカゲ)────いいや、竜だ。

 遥か昔に絶滅したと言われ、今ではお伽噺の中にしか存在しない生物の頂点。当然見たこともないのに、それが竜なのだと、本能的に確信した。

 人を食べる竜と戦う騎士のお伽噺、どこかの街の道端で見た人形劇、子供たちは竜を恐れ、騎士の活躍に歓喜した。

 ぱちりと、竜の瞳がもう一度瞬きをする。

 この生き物が、人を食べるのだろうか。青鈍色のそれは理性的で、どことなく悲しげに見えた。人形劇の中で語られていたような狂暴性は少しも窺えない。

 無意識に手を伸ばしていた。手があることに安堵する。

 ひた。黒い鱗に触れた。

 熱くもなく、冷たくもない、触れた感覚そのものがなかった。そうして漸く、ここは夢の中なのかもしれない、と思い至る。

 だからこんなにも脈絡がないのか。納得した途端に、手のひらに硬質な感触を覚えた。

 感覚が、ある。

 熱くもなく、冷たくもない、硬い鱗の、さらりとした感触。

 次第に、とりとめのなかった思考が纏まりを見せ始めた。

 夢ならば、目を覚ます必要がある。

 周囲に視線を巡らせようとした時、背中をそっと押された。何、と思う間もなく、無防備だった体はぴたりと竜の顔に縋りついてしまう。

 キシ、と鱗の擦れる音。背中を押したのは、竜の尾だ。縋られた竜は、ほんの少しこちらにすり寄るように顎を上げて、それきりまた何の動作もなくなった。

 一体、どういう夢なのだろう。

 自分は、竜の前肢の中にいる。更に尾によりくるりと囲われ、身動きが出来ない。抜け出そうとすると竜は目を閉じ、ぐいぐいと頭を押しつけてくるのだ。抜け出すことは一旦諦めた。竜が目を閉じてしまえば上も下もわからない暗闇なのだから、どうしようもない。

 竜は、何も言わない。

「お前、おれにどうして欲しいんだ」

 ぱちり、再び現れた青鈍色。縋りついた頬から離れ、その瞳を見つめる。綺麗な色だなと、思う。淡く発光しているためか、深く清んだその目はきらきらと輝いて、穏やかで静謐な夜空のようだった。

「ここにいて欲しいのか」

 キシ、キシ、鱗を鳴らし、蠢く尾の先が躊躇うように触れてくる。

 正解、だったのだろうか。だがここは夢の中だ。夢は、いずれ覚める。覚めなくてはいけない。自分にはまだやることがあるのだ、ずっとここにはいられない。

 それを伝えるために顔を上げれば、青鈍色はこちらを見てはいなかった。

 頭をもたげた竜の、視線の先。

 暗闇が一筋、切り裂かれている。

 切り裂かれた闇はゆっくりと傷口を広げ、やがて完全な円になった。

 そしてそこに、ぎゅるん、と現れる虹彩。瞳だ、星雲の色彩を持つ、それは巨大な眼球だった。


『アクルローフェ』


 わん、と響く、幾重にも折り重なる音。水面に落ちた羽虫が広げる波紋に似たそれ。眼球は竜を見つめている。

 竜は、前肢の中の小さなものを隠すように尾を丸めた。

『その子を返しなさい、アクルローフェ』

 その音からは、男なのか、女なのか、若いのか、老いているのか、冷たいのか、優しいのか、何もわからない、何も伝わらない。

 ただ『その子』と示されたものが、自分であることは、理解した。

 アクルローフェと呼ばれたこの竜が、かの要求を拒絶していることも。

『その子の未来を永遠に閉ざすことを望んでいるのか、アクルローフェ』

『未来は、既に閉ざされたのだ、オルシュアよ』

 低い、低い、後悔に満ちた声が、大粒の雫とともに頭上から降り注ぐ。

 振り仰げば、竜は、涙を流していた。

『貴方には、わからないだろう。我らの命に、次などない。潰えた先の、未来などない。貴方の元へ還り、再び生まれた命は、貴方には同じ生き物に見えるのだろう。だが我らの目に見えるそれは、全くの別物なのだ。失った命への悔恨と悲嘆は消えないのだ。私は、この子の魂が、この子以外の誰かになるのが耐えられない』

 滔々と、竜は語る。その目から涙をあふれさせたまま。鱗を伝い、こぼれ落ちるそれらは闇の中で弾けて、どこへ消えてしまうのか。

「おれは、死んだんだな」

 竜は答えなかった。それが答えなのだろう。

 ああ、そうか、と思う。ここは夢の中ではなく、死者の路なのだ。あの眼球──女神オルシュアの元へ還るための路。

 夢ではないなら、急いで目を覚ます必要もない。心残りはあるが、死んでしまった身ではどうすることも出来ないのだ。

 ならば、暫くここにいるのもいいだろう。

 女神の元へ還ることに拘りはないし、生まれ変わりもそうだ。この竜は、自分にここにいて欲しいようだ。ずっと、というわけにはいかなそうだが、期限が来るまでは、自分のために涙を流す竜に、残りの自分をくれてやってもいい。

 そう思って、竜に体を預け、宥めるように鱗を叩く。以前は、よくこうして、泣く妹を慰めていた。

 竜の涙は止まらない。はらはら、はらはらと、重みを感じないそれは、寂秋(あきさび)に散りゆく木の葉のようで。

 困った。どうにも自分は、この竜に泣かれると弱いらしい。

『まだ、死んではいない』

「…………え?」

 ひくりと、竜の体が揺れる。

『お前の死を恐れたアクルローフェが、死の直前にお前の魂をここへ隔離した。肉体の生命活動は止まっているが、今ならまだ、魂が戻れば再開する。尤も、お前の肉体が受けた損傷は致命のものであった故、そのまま戻っても、死を免れることは出来まいが』

『まだ……まだ、死んで、いない……?』

『今はまだ、というだけの話だ、アクルローフェ。魂が離れたままでは遠からず肉体は滅びる。戻ったところで、損傷のために長くは』

『オルシュアよ』

 竜は、女神の言葉を遮った。

『この子を救う、手立てがあるのか』

 問いかけ。だが、確信を持っている。竜は畳みかけた。

『そうだろう、でなければ、この子が死んだと思い込んでいる私に、まだ生きていると伝える意味がない』

『だって、言わなければ、お前はその子を源に沈めてしまうだろう』

 女神の声に、初めて感情らしきものが乗る。それは慈母と呼ぶには些か子供染みた、拗ねに似た感情だった。

『教えてくれ、オルシュア、どうすればいい、どうすればこの子を助けられる』

『お前の言う通りだ、アクルローフェ。わたしにはひとの心がわからない。死を恐れながら、死にかけた肉体に固執するなど、矛盾だとしか思えないのだよ。ましてや、愛し慈しむべき魂を崩壊させようなど』

『オルシュア』

『その子をわたしの愛し子にしたのは、お前だろう、アクルローフェ。愛させておいて、取り上げるのか、理解しがたい、許しがたい行為だ』

『何でもする、対価が必要なら、この魂をお返ししてもいい、どうかこの子を助けてくれ、どうか』

『アクルローフェ、わたしの愛し子、悲しいことを言わないでおくれ。わたしとて、子らの命を尊む心はあるのだよ』

 女神はその巨大な眼球を僅かに伏せた。

 神は人と相容れることはない。真にわかり合うことなど、決してありえない。それでも愛しているのだと、女神は嘯く。

『救えると、断言することは出来ない。その子の肉体は間違いなく死に向かっている。それを止められるか否かは、わたしの預かり知らぬところだ』

『可能性があるなら、縋らせてくれ』

 星雲の虹彩が蠕動し、無数の小蟲の群のようにぞろりと蠢いた。

『お前の涙を、その子に与えなさい』

 竜の目が瞬く。

『お前が持つ魔力は、現存する生物の中で最も純粋な生命力だ。体液にはそれが多く宿る。精氣よりも余程馴染むだろう』

 竜の首が、ぐぐ、と近付いてくる。涙を流し続ける瞳が、懇願に細められた。飲め、ということなのだろう。

 手を器のように涙を受け止めようとしたが、思いとどまった。泣き続けるこの竜を、慰めてやりたかったのだ。

 涙に濡れた竜の鱗に、直接唇で触れる。

 竜は大きく二度の瞬きをして、一層激しく泣き出してしまった。

『いかないでくれ、しなないでくれ、私をひとりにしないでくれ、どうか、どうか』

 咽び泣く竜の頭を抱き締める。こんなに大きな竜なのに、その姿は自分の後を必死についてくる小さな妹の姿に重なった。

 大丈夫だと、言ってやれればいいのに。竜の涙を飲み下しても、自身に何かしらの変化があったようには感じられなかった。

『がっかりしたかな、ルーカイシュカ』

 女神の声からは、やはり何の感情も窺えない。だがその星雲は一見おぞましささえ感じるものの、視線には慈愛が満ちている。

 女神は確かに、人を、愛しているのだろう。

『神といったところで、無力なものだ。愛し子の我儘ひとつ、満足に叶えてやることも出来ないのだから』

「がっかりする程、期待もしてない」

『ふ、ふ、これは、手厳しい。では、もうひとつ。アクルローフェ、お前の血と、源の水を混ぜ、その子に与えなさい』

 竜の体が強張った。戸惑い、躊躇いが窺える。

『源洞の、泉は……』

『そうとも、源の水は、目に見える精氣だ。斜陽(まもの)以外の生命が取り込めば当然、崩壊を招くだろう。だから、お前の血を混ぜるのだ、アクルローフェ。魂には涙を、肉体には血を。この子の体をお前の魔力で満たせ。それが、この子の中の過剰な精氣を抑制する。ただし、忘れるな。抑制が足りなければこの子の肉体は崩壊する。抑制されすぎれば肉体の修復が間に合わない。失敗すれば、この子に不必要な苦しみを与え、お前の後悔も更に深いものになるだろう。それでもいいと言えるのならば、試してみなさい』

『塵界の私に、貴方の声は届いただろうか』

『耳で聞こえずとも、魂で理解する。塵界のお前もまた、お前なのだから。さあ、ルーカイシュカ。そろそろ戻らねば、奇跡が起こる前に肉体が滅びてしまうよ、おいで』

 手招きをするように、女神の眼球がゆらゆらと動く。

 竜の前肢から抜け出して、女神の元へ。竜は止めない。声を上げることもない。自分を守ろうと巻いていた尾は、力なく伏したままだ。ただ背中に、ずっと視線を感じ続けた。

 女神の前に立つ。

 星雲の瞳。それが淡く、微笑んだように見えた。瞳孔が肥大化する。虹彩を押し退け、白目を歪め、ぐにゃりといびつな(うろ)を広げた。

 ここを通れば、戻れるのだろう。生きられるかどうかは、わからないが。

 ふと、振り返る。

 竜は、元の場所から動かず、静かにこちらを見つめていた。聞き分けのいい振りをした青鈍色の瞳が、不安げに揺れている。


「待ってて、アクロ」


 とぷん。

 踏み出した足は水底に沈み、意識は遠く、遥か彼方へ。

 ────ルカ。

 彼の、自分を呼ぶ声を、聞いた気がした。





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