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痛々しい表現あり。
襟首を掴まれ通路に放り出されたルカは咄嗟に地面を転がり飛来した矢を回避した。
ご機嫌な口笛に顔を上げればそこには弩を構えたあの男が、にやけ面で立っている。ルカは舌を打って追撃に構えた。
「侵入した痕跡はなかったと思うが、どっから入り込んだ? 別に入り口があったのか? 保管場所を移した方がいいか」
男はぶつぶつと独り言を言いながら弩で肩を叩いている。言動から察するに、あの毛皮の山を作った当人なのだろう。そして男はルカの発した「密猟」という言葉を肯定した。
つまりここは悪党のアジトで、男はその悪党なのだ。
ルカは改めて男を観察した。
線は細いが、背は高い。浅黒い肌に黒褐色の髪、鳶色の目。普通の町人のような格好をしているが、アクロの知り合いであること、狩人を名乗ったこと、そして恐らくあの悪趣味な呪いを仕掛けた当人であることも含めて鑑みれば、男は間違いなくノマの民だ。
ルカの知るノマはほんの数人だが、それでも随分と印象が違った。
(こんな軽薄なノマもいるのか)
仮面も付けず、外套も纏わず、へらへらと薄ら笑いを浮かべながら人に向けて平然と矢を放つ、そんな男が。
なるほどどんな集団にも、屑はいる。所属や肩書きは、人格を断ずる指標になどなりはしないのだなと、ルカは密かに嘆息した。
「しかしあの呪具を壊すとはねえ……本当はただの獣避けのつもりだったが、いい夢を見れたかい?」
「退屈すぎて眠っちまうかと思ったよ」
「いいねえ、威勢がよくて! けど、人様のものを壊すようなお転婆にはお仕置きが必要だよなあ」
男はゲラゲラと笑い弩の引き金を引く。
男の視線と、弩の角度。矢の軌道を予測して回避するが、続けざまに射たれると足元がもたついた。
「すばしっこいな! こりゃあ、本当に狩りをしてる気分だ!」
「っだとしたら、アンタの腕は大したことないな」
「抜かせ、強がってるのバレバレだぜ? いつまでそうしていられるんだ?」
射撃の合間に小石を投げてくるのは、ルカの退路を狭め注意力を削ぐためか。男は言葉通り、実に楽しげにルカを追い詰める。
持ち前の運動能力と勘のよさで回避し続けてはいるが、体力も精神も、既に限界だった。手は震え、膝は笑う。治りかけとはいえ未だに痛みを訴える火傷が、思い出したように熱を持ち始めたようだ。
考えろ。ルカは鈍る脳を叱咤して思考を巡らせる。どうしたらここを切り抜けられるか。
正面から戦うのは得策ではない。ルカはまだまともな戦い方を知らないのだ。ならば逃げる。だがどうやって。この洞窟に入ってきた道は男によって塞がれている。ルカが使った道とも言えない岩の裂け目は少し高い位置にあるため、瞬時には上れない。無防備な背中を射られて終わりだ。
それなら、もっと奥に逃げ込めないか。洞窟の構造はわからないが、一本道ではないことに賭けてみることは。
しかし、次の一矢が放たれる瞬間踏み出した足が縺れた。
「……ぁ?」
急所を狙うつもりのない矢は、火傷の残る右肩に突き刺さった。
「────ッ!」
崩れ落ちなかったのは奇跡に近い。
ふらつきたたらを踏んで、岩壁に背を強かに打ちつける。
可笑しい、何だ、これは。
疲労や痛み、熱とは違う、奇妙な酩酊感に視界が歪んだ。
「捕まえたぜ、子鼠」
悠々と近付いてきた男はルカの側に落ちている拳大の石を拾い上げる。
赤黒い、石。
男が投げた石のひとつか。甘ったるい臭い。雪洞で、男からも感じた臭い。そして今、この空間を薄く満たしている臭いの根源だ。
舌を打とうとしたが、ルカの口角は引き攣っただけだった。
男の攻撃に集中していて、この臭いに気付けなかったとは。これが何なのかはわからないが、ルカの意識に干渉していることだけはわかる。
「ったく、手こずらせてくれやがって……だがなかなか楽しかったぜ、お転婆な嬢ちゃん」
男はルカの肩に刺さった矢を握り、中を抉るように大きく回した。
「ぐ、ぅ……ッ、……ッ」
「おーおー、我慢できて偉いねえ」
そして力任せに引き抜く。
「────ッ!」
歯を食い縛りどうにか悲鳴を飲み込んだ。浅い返しに僅かな肉を絡めたままの矢を放って、男は楽しげに笑っている。
「けどなあ、俺のご機嫌は伺った方がいいぜ、嬢ちゃん」
男はその顔をぐっとルカに近付けた。
「お前はこれから犯されて殺されるんだ。楽しくイけるかは俺の機嫌次第だぞ」
精々媚びて見せろよ。至近距離にある男の顔がぐにゃりと歪む。嗤ったのかもしれない。あまりに醜くて判断がつかなかった。
「ははっ、自分のオンナを他人に犯されたら、あいつはどんな面見せてくれんのかねえ、自分のもんじゃねえ精液でぐちゃぐちゃにされた死体を見たら、あの澄まし面も流石に歪むか? ああ、想像するだけで楽しくなってきた」
ルカは陶酔する男の顔に向け血の混じる唾を吐いた。
ぴたりと動きを止め表情を消した男は、次の瞬間ルカの首を掴み壁に押し付けたままその体を吊り上げる。
「ぅ……ぐ……ッ」
「おいクソガキ、言動には気を付けろって言ったろうが」
「臭え、んだよ、ツラ、近付けんな、変態野郎」
男は深々とため息を吐き、ルカの体を地面に叩きつけるように投げ転がした。仰向けになったその肩を、上から強く踏み下ろす。
「がッ……ぁ……」
「決めたわ。生きたまま腹を裂く。そんでハラワタの中にたっぷり射精してやる。その後は手足を切り落として、上にも下にも突っ込んでやろう。なるべく長く生きられるように丁寧にやってやるから、いい声をあげてくれよ」
「テメエ、みたいな、変態野郎は、どいつもこいつも、似たような、こと、しか言わねえ、つまんねえ、野郎どもだ」
「口の減らねえガキがっ!」
男は肩から退けた足でルカの腹を蹴り付けた。ルカはその足にしがみつく。こうすれば多少は、相手の動きを制限出来る。男が体勢を崩しかけ、生まれた隙。転がされた先で拾った矢を、渾身の力で男の踵に突き立てた。
「ぐあっ! こいつ……っ舐めやがって!!」
薄れる意識に霞む視界では、それが精一杯の抵抗だった。後はただ頭を踏み付けられ、転がされて、視界が赤く、そして黒く閉ざされていく。遠退く意識の片隅で、男の手がルカの衣服にかかったような気がした。
このまま犯されるのか。自分は多分、どうってことはない。だけど多分、アクロは悲しむだろう。
そう思った時に、あ、と思い出した。
出会ったばかりの頃、一度だけ、アクロを怒らせたその理由。
どうしても思い出せずにいたのに、こんな時に思い出すとは。
『おれに、なにをさせたい。アンタにあしでも、ひらけばいいのか』
今思えば確かに、アクロに対して随分と侮辱的なことを言った。アクロが自分のような子供に、そんなことを望む筈がないのに。
でも、知らなかったのだ。
無償の善意など、知らなかった。
ルカの知る大人たちは、ルカに何も与えなかった。だというのに、ルカからは奪おうとする。
図々しい話だ。何も持っていない子供から、唯一の所有物である体を奪われかけたことも、一度や二度ではない。そのすべてを回避出来たのは、知識だけはそれなりにあったからだろう。それを思えば、子供の前でやりたい放題だった両親の屑ぶりも、役に立ったと言えなくもない。感謝など天地が引っくり返ってもしないが。
だからルカは知らなかった。
子供が、体を投げ出す真似事をすれば、怒る大人がいるということ。
出会ったばかりの見知らぬ他人の痛みを、己の痛みよりも憂える人間がいるということ。
あの、やさしい男は。
ルカの痛みを思って、ひどく苦しむだろう。
(それは、嫌だな)
だがどうしようもない。意識は既に痛みも寒さもわからない程曖昧で、自分の意思では指先ひとつまともに動かせないのだ。
(出来る限りは、やったんだけどな)
死ぬだろうか。死ぬだろうな。死ぬのは別に、怖くはない。妹を見つけるまではと足掻いていたけれど、そう都合よくはいかないだろうとも思っていた。
それを思うと、自分は本当に妹を見つけたいのだろうかという自らへの疑いが浮かぶ。
大切だった筈だ。何よりも大切だった筈だ。自分の命より。
自分の命より?
執着もない、こんな、ちっぽけな命よりも大事だから、何だ。
大事だと言うのならどうして、こんなにも諦めに似た感情に満たされているんだ。
あの子はもう、生きていないんじゃないか、なんて。
振り払っても、何度振り払っても、その思いは消えない。自分はそのことに、焦りを抱いているか。それならそれでいいと、考えてはいないか。
本当は。
妹など、どうでもいいのではないか。
ただあの場所から逃げ出すための理由が、欲しかっただけなのでは────。
あの子を、言い訳にして。
必死で探している振りをして。
だとしたら、嗚呼、何て、何て浅ましい。
所詮は自分も、あの両親から生まれた種で、自分のことしか考えられない屑だ。
このまま、ここで惨めに死んでいくのがお似合いだ。
アクロ。
アクロ。
(おれには、アンタが心を砕く価値なんてないんだよ)
ただひとつ、贅沢を言うなら、その死体をアクロに見られないといい。難しいかもしれないが。
彼を悲しませるのは本意ではないのだ。
恩を、何一つ返せていないのに、後味の悪さだけ残すなんて、あんまりだろう。
せめて彼が負う心の痛みが、小さなものでありますように。
他の生命たちと同じように、ほんの一瞬の邂逅をして通りすぎただけ。忘れて欲しい。そしてまたあのやさしい顔で笑ってくれ。
ああ、あの顔はすきだ。やさしくて。泣きたくなるくらい、やさしくて。
ああ。
あのひとがすきだ。
泣きたくなるくらい。
だから、きっとこれでよかった。
この思いが彼の足枷にならないように。重荷に、ならないように。自分は彼の前から消えて、彼は、日常に戻る。それでいい。
大丈夫だ、きっとすぐに忘れる。この冬の雪が、決して残らないように、春が、とかしてくれるだろう。
小さな満足に僅かばかりの笑みを浮かべたルカはそのまま、やわい暗闇の中に意識を手放した。
一方の男は、裂いた衣服の下から現れた薄い体を見下ろし、興醒めしたように鼻を鳴らす。
「何だこのガキ、メスじゃねえのかよ。アクロの野郎、そういう趣味か」
なるほど、浮いた話のひとつもないわけだと勝手に納得している。そして改めてルカを見下ろすと、その顔に卑下た笑みを浮かべ舌を舐めずった。
「まあ確かに、このガキのツラなら女も男も大して変わりゃしねえか。あの女はヤり損ねたし、代わりに楽しませて貰うとするかねえ」
風切り音。
「え」
男が事態を把握するよりも速く、男の右腕が、肘から先が、回転し弧を描きながら、ぼとりと、落下した。
「ぎ、ああああっあがっ!!」
悲鳴はくぐもった音に変わる。矢が弾き飛ばした右腕が地に落ちるのとほぼ同時。矢のように襲来したモノが、ダグの鼻と前歯を砕いた。