24
女はルカを見るとふわりと微笑む。
「やっぱり、私のところに帰ってきてくれたのね、嬉しい、嬉しいわ、信じていたわ、あなた」
金茶色の髪と、同じ色の睫に縁取られた金色の目。紅を引いているわけでもないのに赤い唇。妹とよく似た顔立ち。つまりはルカにも似ている筈ではあるが、それを感じさせない程、女の表情は淡く儚く、どこか浮世離れしていた。
何故、何故、この女が、こんなところに、何故。
「待っていたわ、ずっと待っていたわ、ずっとずっとずっとずっとずっとずっと待っていたのよ」
ずうっと、ずうぅっとよ。女は何度も念を押す。にこにこと、とても嬉しそうに。
「わかっているわ、少し驚いただけよね、あなたはあの子と仲がよかったから、急にいなくなられて、驚いただけよね」
でも大丈夫よ、すぐに忘れるわ。
美しい程、完璧な笑み。
体が動かない。息が出来ない。心臓が、喉を競り上がってくるようだ。
「忘れなさい、どうせもう生きてやしないわ、忘れるの、出来るわね? だってほら、あなたは帰ってきてくれたもの、あなたは私のものだもの、私はあなたを愛しているし、あなたもわたしを愛しているのだから、当然よね」
口元を両手で押さえる。そうしておかないと、腹の中のものを内臓ごとすべてぶちまけてしまいそうだった。
女は、最後に見たあの日のままだ。
泣いてばかりいたくせに、少年に対してはよく笑う女だった。少女のように。
ずっと昔は、母親として愛されたこともあった筈なのに、いつからか母親は女になり、少女になった。もう母の愛は思い出せない。
「大丈夫よ、怒っていないわ、私をぶったこと、許してあげるわ、愛しているもの、どうってことないわ、あなたも私を愛しているって知ってるもの」
暴力を奮われることに慣れていた女は、それを許すことにも慣れていた。その対象はいつも父親だったけれど、つまらない茶番だとしか少年には思えなかった。
女は泣きながら愛していると言い、男は嗤いながら俺もだと言う。そして絡み合う。
本当に幼い頃は意味がわからなかった。女の側で、女が乱されていくのを見ていたが、ある日。
女の目が、自分をひたと見つめていることに気が付いた。男に揺さぶられながら、熱にとろけた瞳で、実の子を見る女。
唐突に理解した。
女は男を求めていて、それが父親から、自分になった。
あれらは怪物だ。
女も、男も。
ルカの目には、怪物に見えた。人の形に無理矢理押し込められた蛇のような怪物。
ただ己の欲に、何よりも純粋な本能に従うだけのけだもの。その執着を向けられるのが怖かった。
少年は妹を抱き抱え、ふたりの前から逃げ出した。
醜い。
汚い。
気持ち悪い。
愛とは何て、不快なものなのか。
「ふふ、ほら、こっちへきて、あなた、今度こそ、愛し合いましょう、ねえ」
立ち上がった女の足元に、ぱさりと衣服が落ちる。
咄嗟に顔を背けた。一糸纏わぬ姿になった女など、ルカにとってはおぞましいものでしかない。
当時を思い出してしまう。
意味もわからず見せつけられていた、けだもの同士のまぐわい。
耳に纏わりつく女の嬌声、男の息遣いと嘲笑、粘膜のこすれ合う重い水音。
気持ち悪い。
髪を振り乱しよがり鳴く女も、冷めた目で女を見下ろしながら一心不乱に腰を振る男も。
まるで、ただ見ているだけの自分こそが犯されているような嫌悪感に、内臓をぐちゃぐちゃに掻き回されているようだ。
「照れなくてもいいのよ、見てもいいの、こっちを見て、私を見て、ねえあなた、私のあなた、私を見て目を逸らさないでちゃんと見て」
声が近付く。女が、近付いて来ている。
ひたり、ひたり、裸足のまま、幽鬼のような覚束ない足取りで、ゆっくり、ゆっくり近付いて来る。
こっちへくる。
くる。
くるな。
くるな、くるな、くるな。女の白い手が、伸ばされて。
「来るなあ!!」
顔の前に翳した、震える両腕。
左手首。
琥珀。
金色の琥珀が、輝いている。
アクロが編んだ加護飾り。視界に入ったそれに、ルカは目を見開いた。
『君に幸運があるように』
気休めだと言った、アクロの呪い。
まじない、まじないだ。人の脳に干渉する、ノマの呪い。
誰が、何のために仕掛けたものかはわからないが、これは、己の脳が見せているだけのまやかしなんじゃないのか。
だって、いる筈がない。
こんなところに、この女がいる筈がないのだ。
冷静に考えれば、あの女にルカを追うだけの気概も体力もあるとは思えなかった。ましてや自分のことしか考えない女が、真冬のさなか、誰かが訪れるとも知れない洞窟でルカを待つなど。
現実的ではない。あり得なすぎて、笑えてくる。
女はここにはいない。“これ”は実体ではない。なら、躊躇する理由もない。
ルカは女が嫌いだが、女に暴力を奮うのも嫌いだった。それは優しさからではなく、ただ、不快だったのだ。
あの日女に奮った拳、殺すつもりはなかったが、殺しても構わないという気持ちで奮った拳に残り続けた感触、記憶は曖昧だというのに感覚だけは鮮明で、いつまでも消えないその感触が、どうしようもなく不快だった。
振り払うように、ナイフを抜く。見上げた女は笑みを深めた。
「そうよ、見て、もっと見て、私を見て、私だけを見て、愛しているわ、私のあなた」
「アンタが愛してんのは、自分だけだろうが」
消えちまえよ。
吐き捨てて、女の腹を薙ぐ。
目を見開く女。自分の身に起こったことが理解出来ない、そんな様子でルカの顔を凝視し、そのまま自分の腹を見下ろす。
一筋の傷。
手応えはなかった。だが女の腹に走ったそれは、次の瞬間ぐぱりと開き、膨張して、捲れ返り、黒い泥のような濁流を噴き上げた。
女の甲高い悲鳴は、次第に低い地鳴り染みた慟哭となり、意味をなさないままその体とともに、
弾けて────消えた。
後には何も残らなかった。
多分、最初から何もなかったのだ。
ルカは大きく息を吐く。
ナイフを鞘に納めようとするが震えが残っているせいで上手くいかない。忌々しさに舌を打った。
もうとっくに、振り切ったと思っていた。しかし人の心はそう単純なものではないらしい。
ルカはあの女の無垢な笑みが、何よりも恐ろしかった。だからだろうか。そういうものを見せる呪いだったのかもしれない。
どうにか刃を納めきり、周囲を見回す。
目に止まったのは、岩影に隠すように置かれていた陶器の置物だった。手に取ってみると、表面に複雑な模様、或いは文字が施されている。
ルカには読み取れなかったが、それはアクロが見せてくれた呪い模様とよく似ていた。
ルカが隠れた木に、雪洞に移動したら雪洞に施したと言った、幻視の呪い。
木は見ていないが、雪洞のものはルカもこの目で確認をした。貯蔵庫の内側の壁、丁度、あの男が壊した辺りに掘り込まれていた筈だ。その模様をルカに見せながら、他者の精神に強い影響を及ぼす呪いは、媒体、というものが必要なのだと、アクロは語った。
ならばこれこそがその媒体だろう。これが、あの胸糞悪い幻を見せたのだ。苦々しく思いながら、ルカは手にしたそれを地面に叩きつける。
陶器は高い音を立てて砕け散った。
途端、どこかに身を隠していたらしき獣が再び現れ、周囲を警戒しながら岩の隙間にするりと入っていった。
「あ、おい、お前……」
先程通った裂け目よりずっと広い、余程大柄でなければ大人でも通れそうな隙間だ。
追おうと思ったのは何となくだ。ろくでもない体験をする羽目になった、その原因を見てやろうという思いもあった。結果的に吹雪の中で凍えることは避けられたのだから、寧ろ感謝したいくらいだと半ば自棄糞気味に考えて、ルカは岩間をくぐる。
そこは小さく開けた空間になっていた。ルカ程度の体格で両腕を開くのがやっと。
部屋というより、精々物置か。
浮かんだ言葉通り、そこには何かがこんもりと積み上げられている。
毛皮だ。大量の、白い毛皮。
同じ毛皮に身を包む獣はその中に頭を突っ込み、やがて探り当てた一枚を咥えると今度こそ振り返らずに走り去ってしまった。
「この毛皮……あいつの仲間たちか……」
その中でも持ち去ったあの毛皮の持ち主は、あの獣にとって大事な相手だったのかもしれない。取り戻したかったのだろう。しかしそれには、あの呪いが邪魔だった。恐らく獣も、ここで恐ろしい思いをしたのだ。それでも諦められずに、ルカをここへ導いたのか。
毛皮の山に目をやる。綺麗な毛皮だ。こうして見ると雪のように白いわけではないが、仄かな乳白色は純白よりもやわらかく暖かな印象を与える。触れば、きっと心地好いのだろう。
だがだからこそ、不審だ。こんな場所に人知れず安置していることも、呪いを施してまで隠していたことも。
「これ、密猟、ってやつじゃ……」
「せぇーかい」
「────ッ!!」
◇ ◇ ◇
「アクロ兄ッ」
鋭い声で呼ばれ顔を上げれば、木々を駆け渡るカウルが積雪を蹴散らし着地するところだった。
「カウル、何か手がかりは」
「すまない、何も……」
「こちらも同じだ。謝ることはない。あの吹雪が痕跡をすべて消してしまったようだ」
声ばかりは冷静だが、内心まではそうはいかない。アクロは焦っていた。
雪洞から消えたルカを探して、既に一刻(二時間程度)が経過している。ノマのような頑丈な体であれば別だが、対策もなしに吹雪の中を耐えられる時間ではない。子供であれば尚更だ。どこかで寒さを凌げているといいのだが。
見上げる空は吹雪こそ止んではいるものの、未だ降雪は続いている。
「アクロ兄、ルードのみなにも協力して貰おう。ダグが関わっている可能性があるんだ、みなが動くのに十分な理由だろう」
「事情を、説明している時間が惜しい」
「その間は俺が捜索を続ける。逆でもいいが、あのこどもに関してはアクロ兄から説明した方が早いだろう。別行動をしていることは露見してしまうが、この際仕方がない」
逡巡は束の間。今は一刻を争うのだ。正直に言えばこうして話している時間すらルカの捜索に当てたいが、人手は多いに越したことはない。
家族らの協力を得る方向に思考を切り替え、アクロは頷く。しかし「では私は一度、ルードに戻る」と言いかけた言葉は最後まで続かなかった。
白い影が、視界を掠める。
行動に移ろうとしていたカウルも、それに気付いて足を止めた。
「スムー……?」
乳白色の毛皮に、ぱちりと瞬く黒い瞳。雪で飾られた樹木をするりと降りてきた、それは確かにスムーだった。
「あれは何を咥えて……死体か?」
「いや、毛皮だ」
白い獣は己と同じ色の毛皮を咥えたまま身を翻し、雪を蹴って駆け出す。姿はすぐに見えなくなったが、真新しい雪原にはスムーの残した痕跡が帯状に尾を引いていた。スムーは本来、これ程わかりやすい痕跡を残さない。だとすればあのスムーは、アクロたちに伝えたいことがあるのだ。
反射的に、アクロは足を踏み出した。
「追おう」
「えっ?」
間髪いれず駆け出すアクロに目を剥いたカウルは、一拍遅れてその背を追う。
「アクロ兄、ルードはどうするっ?」
「あれは明らかに意思を持って我らを誘導している。探し物が見つかるかもしれない」
「正気か!?」
「正気だとも。スムーは人の知恵を利用する生き物だ。あの行動には意味がある筈。手がかりが乏しい今、賭ける価値はある」
「……わかった、乗ろう」
振り向き、頷く。頷き返したカウルを確認したアクロは再びスムーの痕跡を見据え、速度を上げた。
どうか、どうか無事であれと願いながら。