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「────?」

 ルカは雪洞の外に何かの気配を感じて手元から顔を上げた。

 正確な時間はわからないが、既に陽も落ちて久しい。一瞬アクロが戻ってきたのかと思ったが、様子が可笑しい。雪洞を観察するように、纏わり付く気配。

 魔物だろうか。

 ルカはアクロに与えられた靴の帯を結び直し、毛皮を纏ってナイフを握り締めた。

 戦い方を教えると言ったアクロは、あれきり数日、戻らない。とは言えルカも、村を出てからひとりで生きてきたのだ。無抵抗でやられてやる程か弱い存在ではない。

 音を立てないよう慎重に通路を通り、貯蔵庫の出入口の脇に身を潜めた。

 暫し後、ざくざくと雪を踏む音が近付いて来る。

 魔物ではない、人の足音だ。

 だが魔物のような、甘ったるい異臭が鼻についた。

 アクロではない。アクロよりも雑な足音は、貯蔵庫のすぐ側で立ち止まり、沈黙した。

 入って来ないのか、息を潜めて相手の出方を伺う。入って来るなら、その横っ面にナイフを突き立ててやるつもりだった。

「そこにいますか?」

 ぞわりと、鳥肌が立つ、穏やかな声。

「アクロに頼まれて様子を見に来たのだけど、洞内には入るなと言われているから、いるなら返事をくれませんか」

 アクロの使い? ルカを顔をしかめる。

 アクロは自分以外がここに来ることはないと言った。例え不測の事態が起こったとして、アクロがその言葉を覆すだろうか。

 その上使いに寄越すのが、“これ”か?

 洞内に入るなというのは、いかにもあの男がしそうな気遣いだが、どうにも違和感が拭えない。

(でも、例えば、本人が動けない程の怪我を負っていたり、だとかしたら)

 あり得ない話ではない。

 ドクリと心臓が嫌な音を立てた。アクロが、動けない程の怪我を。腹の底を冷たいもので撫でられるような不快感。

 ほんの少し、躊躇をしている間に。ゴッと鈍い音がして、ルカは貯蔵庫の奥に飛び退く。

 立て続けに響いた音は貯蔵庫の壁を揺らし、罅を入れ、ついにはガラガラと半壊させてしまった。

 雪煙。

 その向こう、宵闇の中に、先端の尖った鎚を手にして立つ男がいた。

 確かに人の形をしている。だがルカにはその姿が妙に、歪んで見えた。ナイフを握り直す。男は口角を吊り上げ笑った。卑下た、酷薄な笑みだった。

「へえ、ちょいとガキすぎるが、キレイなツラした嬢ちゃんだ」

 なるほどねえ、とニヤつく男は先程の慇懃な猫撫で声より余程相応しい不遜な口調だ。いっそ安堵すら覚える。ルカにとっては、そういう破落戸(ごろつき)のような人間の方が寧ろ馴染み深い。

 だからといってそれが好意に繋がるかというと、それはまた別の話ではあるが。

「あの堅物が、面倒臭え(まじな)いまで駆使してメスガキを囲ってたとは傑作だ。こういうのが、アイツの好みか。通りでマナクみたいな女に靡かねえわけだよ」

 アイツ、というのはアクロのことだろう。口振りから察するに、この男はアクロが少女──この場合はつまりルカのことだろう──を囲って手篭めにしている、と考えているらしい。

 下品で低俗な思考だ。アクロとの関係はわからないが、ろくなものではないだろう。

 問答無用で雪洞を壊したことといい、まともな会話が出来る相手ではなさそうだ。

「嬢ちゃん、アイツにどんな耳障りのいいことを吹き込まれたか知らねえが、騙されねえこった。アイツはイイヒトの振りが上手いだけの偽善野郎さ。こんなところに一人閉じ込められてんのがいい証拠だろ? 悪いこた言わねえ、今の内に逃げちまえよ。俺が手を貸してやる。だからほら、そんな物騒なもんはこっちに寄越しな」

 無遠慮に近付いて来た男はルカの持つナイフに手を伸ばす。

 ルカは躊躇なくナイフを振り払った。男の手のひらに一筋の傷が走る。

「ははっ、気が強えところは悪くねえ」

 流れる血を啜る男の横をすり抜けて、ルカは夜の雪景色に飛び出した。

「いいぞ、逃げてみろ、小娘! はははっ、この雪の中で、狩人から逃げられるもんならな!」

 あの男は、駄目だ。

 異様な程ギラついた目、それに反して黒ずんだ顔色。以前、路地裏でルカの足を掴んできた、某かの薬物中毒者の様子に酷似していた。同じ薬物の中毒症状とは限らないが、関わってはいけないことだけはわかる。

 ルカは雪を掻き分けて走る。だが思うように進めない。

 アクロに与えられた服も靴も子供用だがルカの体には大きくて動きにくかった。匿われてからろくに動かしていない体はどこもかしこも動きが鈍い。膝程まで埋める雪の深さも、ルカ自身の体力も、この状況を悪いものにしていた。

 だが、あの男に捕まりたくない。その一心で、どこへともなく足を踏み出し続ける。

 あの男は狩人と言ったか。ルカを獲物と見立て狩りを楽しむつもりで、逃げるに任せているのだろう。すぐに捕まえてしまっては面白くないからだ。

 その思考には覚えがある。過去にルカを囲おうとした貴族にそんな質の男がいた。

 ふざけやがって。悪態が口をつく。絶対に逃げきってやる、そう考えた瞬間のことだった。

 唐突な、強い風。

 息も出来なくなる程の雪に殴り付けられる。それはすぐに、数歩先も見えなくなるような吹雪になった。

 ルカはよろめきながらも踏み止まり、背後を振り返る。

 痕跡が、消えていく。

 ルカが残した雪の道が今正に、掻き消されていくところだった。

 これなら、痕跡を追うのが難しくなるのではないか。

 そう考えたが、この強い吹雪の中ではこちらも身動きが取りづらい。かといってここで突っ立っているだけではすぐにでも氷像になるだけだ。

 さっきまで数歩先に見えていた樹木を思い出し、勘でどうにか移動するが、縦横に荒れ狂う吹雪には風下というものが存在しないらしい、その木ではルカの体を守るには至らなかった。

「どうにかして、物陰を探さないと……」

 しかし、どうやって。

 夜、そして吹雪。ルカの目には三歩先だって見えない。

 視界とともに意識も霞かける。指先や爪先の感覚がない。このままではまずい。まずいのはわかるが、どうしたらいいのかわからない。

 思考力さえ奪われかけた、その時。

 するり。

 何かが、足元をすり抜けた。

 "それ"は、ルカの視界のギリギリで静止する。至近距離からひたりとルカを見つめる、黒い双眸。

 白い、獣だ。

 見たこともないその獣はルカと視線が絡んだことを確認するとくるりと転身し、数歩進んでまた振り返る。

 ついてこい。

 そう言っているようだった。

 考えている時間はない。ルカは獣の後を追うために足を踏み出す。

 ザク、ザク、ザク、歩いた端から消えていく痕跡。何度も雪に足を取られながら獣に導かれたどり着いたのは、とある大岩の裂け目だった。

(どうくつ……?)

 狭い隙間だ。獣ならば問題はなかろうが、人間ではそう簡単にはいかない。下手に体を捩じ込めば、中で身動きが取れなくなる可能性もあった。獣が先に行かなければ、この先がどこかに繋がっているとは到底思えなかっただろう。

 しかし、最早選択肢はないのだ。

(この吹雪をしのげるのなら、何でもいい)

 獣の後に続き、どうにか岩間に体を滑り込ませたルカは、体に当たらなくなった強風に安堵の息を吐く。たったそれだけで、救われたような心地だった。

 岩間を這うようにして進み、しかしその先に抜けようとして、危うく悲鳴を上げかけた。

 ぱら、と足元からこぼれた砂利が、急な坂道を転げ落ちていく。

 坂、というよりも崖に近い、足を踏み外せばただでは済まないだろうと思わせる斜面。

「……なんだ、あの光」

 身が竦むような斜面の全容が見えたのは、下に向かう程壁面が淡く発光しているからだ。

 光苔? いや、それにしても明るすぎる。

 獣はちょろりと斜面を駆けて、次の裂け目にルカを導こうとしていた。その様子も、よく見える。

 あの獣はルカを助けたわけではない。何か目的があって、ルカを利用しようとしているのだ。

 それでも、一時的にでも吹雪から逃れられたのはあの獣のお陰だ。なら、利用くらいされてやろう。ルカは意を決し、慎重に斜面を降りていく。

 光る壁面が近付いた。

「苔じゃない……岩肌自体が、光ってる……?」

 淡い黄緑色の光は優しく美しいが、どことなく不気味でもあった。何故そう思うのかはわからない。ただ、静かだ。何もない、と感じた。ひどく寂しい場所だと思った。

 まじまじと岩肌を観察しているルカに焦れたのか、足元の獣がジッと鳴く。

「……今行くよ」

 再び岩の裂け目に体を滑り込ませ、進んだ先には開けた場所があった。裂け目から飛び下りた獣はそこでグウウと威嚇の唸り声を上げると、さっと身を翻しどこかへ走り去ってしまう。

「おい、どこへ、」

 道案内はここまで、ということだろうか。獣は何かを威嚇していた。何かに、怯えていた? それを排除して欲しいのか。

 ルカは裂け目の内側から可能な限り周囲を見渡す。

 空間の壁面は発光しているとはいえ、陽の光程明るいものでもない。ぼんやりとした薄明かりの中、少し奥まった一角に、膝を抱えて踞る人影のようなものが見えた。


 ────え?


 ルカは目を疑った。咄嗟に裂け目から飛び降りる。しかしそれ以上は動けなかった。

 そんな筈はない。

 踞る人影は、確かにそこにいる。

「そんな筈は、ない」

 震えるその声が届いたのか、ひくりと反応した人影が、顔を上げた。

 ゆっくりと、虚ろでいて、無垢な金色が、瞬く。

「あなた」

 ────ぞわり。

 全身が総毛立ち、ルカはその場に縫い付けられた。

 そんな筈はない。こんなところに、いる筈がない。だがいる。そこにいる。

 記憶通りの姿、記憶通りの声、記憶通りの、薄ら寒い表情。

 あの村に置いてきた筈の、少年の傷。

 その女は、確かにそこに。


「かあさん……」


 そこに、いる。





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