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 魔物の子。

 このルードにいる者は、誰もが知っている。


 二十四年前、一人の狩人が、ルードに赤子を連れて帰った。赤子がいたのは、そこかしこに魔物が蔓延る渓谷の底だったという。

 赤子は、朽ちた骸に抱かれていた。

 体の大部分を魔物に食い漁られ原型を失ってはいたが、それは見たこともない程巨大な骸だった。

 骸に抱かれた赤子は、骸の血肉に汚れてはいても、かすり傷一つなく静かに眠っている。

 あまりにも不自然で禍々しく、神聖な光景。

 抱き上げた赤子は、その瞬間を待っていたかのようにぱちりと目を開いた。

 深い青鈍の虹彩。

 細く割れた瞳孔。

 不思議と引き付けられる特異な瞳と、長く尖った耳、開いた口から覗く幼い牙。それらは赤子が、当たり前の人ではないことを如実に物語っていた。

 この赤子は大地の精霊が使わした落とし子なのではないか。

 狩人は、我が子を亡くしたばかりだった。

 奇跡のような出会い。

 泣くこともなく狩人に向け手を伸ばす赤子を、強く抱き締めずにはいられなかった。

 狩人は赤子をルードに連れ帰り、我が子として育てることにした。

 当然、反対する者もいた。当時の酋長もそうだ。

 異端を拒絶しないノマといえど、それは身内から産まれた時の話である。何から産まれたのかもわからない、得体の知れないものは、やはり恐ろしい。

 赤子の見目が明らかに奇異ならば、尚更だ。

 どうしてもと言うならと酋長が出した条件は、赤子の耳を切り落とし、目を潰すことだった。

 赤子を大地の精霊の落とし子と信じている狩人は怒り狂い、酋長に決闘を申し込んだ。

 ノマの掟では、申し込まれた決闘は必ず受けなければならない。代理を立てることも可能だが、この時酋長の決定を支持していたのは年寄りばかりで、若く頑健な狩人を相手に我こそはと名乗り出る者はいなかった。

 結局決闘は、当人同士が行うことになる。

 誰が見ても勝敗は明らかだった。事実その通り、酋長の構えた剣は狩人のそれにあっさりと弾き飛ばされる。しかし酋長が敗北を宣言するよりも速く、狩人の剣は酋長の片耳を飛ばし、片目を払った。

 ──片側で済ませたことをありがたく思うといい。

 そして狩人は赤子の尖った耳の先と、自らの片耳を切り落とすことで義理を通し、この件を落着とした。

 ──もしもこの赤子が我らに牙を剥くことあらば、その時は私自ら手を下し、私の魂もオルシュアにお返しすると誓おう。

 狩人の行動には賛否があったが、家族の多くは狩人を支持した。気勢を失った酋長に代わり、新たな酋長として台頭したのも、その証左と言えるだろう。

 誓いは守られている。

 それと同時に、常に見張られているのだ。

 アクロが生きている限り、アクロの生い立ちがうやむやになることはない。

 魔物の子、という蔑称は当時アクロを迎えることを反対した者たちの言だ。今、それを表立って口にする者はいないが時折、本当に時折、漏れ聞こえることも、ある。


「ただの僻みだ。そんなものが、あんたの評価を左右するものか」

「そう思うのは、お前が当たり前の人として生まれたからだ」

 カウルの僅かな戸惑いを否定するアクロの口調に、恨みや卑屈さはない。音もなく降り積もる雪のように、どこまでも穏やかだ。

「線は引かれていた。いつでも。私は周りのみなとは違う存在だ。それは事実で、事実を苦痛と思うことは最早ないが、孤独感は消えなかった」

 自分はただ、みなの一員になりたかっただけだと、火にくべた小さな呟きは、爆ぜる火の粉が掻き消してしまう。

「……すまない、無神経なことを言った」

「そうじゃない、カウル。私がこんな、情けない愚痴を打ち明けたのは、お前がダグの何もかもを背負う必要はないと言いたかっただけなんだ」

「そんな、つもりは」

「お前が、人よりも早く大人になろうとしていることは気付いていた。誰より正しく、完璧であろうとしていることも」

 ダグが何かしらの問題を起こす度、本人は元より、白い目は肉親にも向けられた。

 両親は、生まれてすぐに亡くした子供と歳の近いダグに甘い。一番上の姉はダグが物心つく頃には既に結婚していて、他人事という姿勢が強かった。

 結果、幼く多感だったカウルが、最も強い影響を受けてしまったのだろう。

 カウルは急いで大人になろうとしていた。自分に向けられる厳しい目と、何よりも自分自身を納得させるため、急き立てられるように。

「誰も、完璧になどなり得ない。お前は私の虚像など追わなくていいし、ダグの影に怯える必要もないんだ」

「…………あぁ」

 沈黙の後、俯いたカウルは溜め息のような相槌を打つ。

「知らなかったな。あんたは、本当に完璧なんだと思ってた」

「なら、私の見せかけも様になっていたということだろう。皆には秘密にしておいてくれ」

 本当なら、カウルにも、他の誰にも、打ち明けるつもりのない心の内だった。自分の中の、多分一番やわい部分だ。隠したくて当然だ。

 それをさらけ出してまでカウルの重荷を慮ったのは、思い詰めたカウルの様子がほんの少し、自分と重なったからだろう。

「そうやって、弱みや本心を見せない辺りも、あいつは気に入らなかったのかもしれないな」

 淡く笑ったカウルの軽口に、アクロは肩を竦めた。

「アクロ兄、あのこどもを、ルードで保護するべきじゃないか」

「────……」

「あのこどもは、あんたの弱みだろう」

 それは、アクロもずっと考えていたことだ。

 ルカには、あれから一度も会いに行ってはいない。

 緊急召集からマナクの捜索、検分、葬儀と忙しなく、その後はカウルと常に行動を共にしていた。カウルを連れたまま戻ろうという気にはなれず、またダグの狙いがアクロであるなら、自分があの場所へ近付くことで寧ろ彼を危険に巻き込むのではないかとという不安もあったのだ。

 もしも自分のせいで、傷だらけの彼が、更に傷付くようなことになったら。

 想像もしたくない。

 それを思えば確かに彼は、アクロの弱み、と言えるだろう。

「ダグは苛立ってる。スムーのこともあるのだろうが、アクロ兄が隠してるものを探ってるんだ。この件は、長引くだけあのこどもにも危険が及ぶぞ」

「それに関しては、同感だ。見つかるのも時間の問題だろう……だが……」

 アクロの中には拭いきれない罪悪感があった。

 マナクに対して何もしてやれなかった罪悪感だ。

 どうしようもないことだったとわかってはいる。未来を知る術のない人間には、誰にも予測出来ないことだった。

 だが、ダグがマナクを嫌うのは自分の影響もあったのではと、アクロは思っている。

 マナクはアクロを慕っていた。自分には勿体ないと思う程の敬慕は隠されることもなく、ルードのみなの周知の事実となっていた。アクロを嫌うダグには、さぞ面白くなかったことだろう。

 自分さえいなければ。考えたところで意味はないとわかっていても、そう思わずにはいられないのだ。

 家族ひとり満足に守ることも出来ない自分が、家族以外の誰か──それも、名目上彼は罪人だ──を守りたいから匿ってくれなど、口にしてもいいのだろうかと。

「アクロ兄、俺はこれ以上、誰も奴の犠牲になって欲しくないんだ」

「……ああ、そうだな。躊躇っている場合では、ないか。私の体裁などどうでもいい、地に額を擦り付けてでも話を通さねば」

「その必要はない」

 ふたりの会話を遮ったのは、疲れの滲む足取りで現れた酋長だった。

「あのこどものことだろう。連れてきなさい。監視をつけて置いておけばいい」

「疲れているな、長」

「何、お前たち程ではなかろうよ」

 酋長はふたりに並び宵闇に立ち上る煙を見上げる。普段は若々しく見える彼女も、この時ばかりは年以上に老いて見えた。

「アクロ、取りこぼすな」

「長殿」

「お前は、取りこぼすなよ」

 彼女は多くは語らない。アクロは黙したまま、ただ深く、頭を下げた。



 酋長の許可は得た。

 躊躇う理由は最早なかった。あのこどもを迎えに行く。スムーを見送ったアクロとカウルは夜明けを待たずルードを発った。

 だがその時になって、天候が悪化した。

 急な吹雪。

 嫌な胸騒ぎがした。

「カウル、悪いが強行する。はぐれないように付いてきてくれ」

 吹雪を掻き分けるように進む。正面から吹き付ける吹雪は容赦なくふたりを殴り付けた。後を行くカウルはまだましだが、すぐ前を進むアクロの負担はどれ程のものか。それでも彼の歩みは一定で、危なげなく雪を踏み締めていく。

 そして辺りが白み始めた頃、アクロはぴたりと足を止めた。「アクロ兄?」彼の顔を覗き込んだカウルは、その蒼白さに息を飲む。

(まじな)いの気配がない」

「……解呪されたのか」

 急ぐ、と呟くや否や、アクロがいた場所の雪が弾けた。

 顔を覆ったのは一瞬だ。だが目を開けた時にはアクロの姿は既に吹雪の中に消えかけていた。

「っ……あんたに本気で走られたら、俺は付いていけないぞ……っ」

 アクロの残した痕跡が激しい吹雪に掻き消される前に、カウルは死に物狂いで後を追う。

 その強行軍は案じた程長くは続かなかった。吹雪は徐々に弱まり、木々の合間にぽつりと建つ雪洞にたどり着く頃には元の穏やかな降雪に戻ったのだ。

 しかしアクロの心中は安堵どころではなかったようだ。

 半壊した貯蔵庫。

 吹雪に埋もれかけたそこから、中に入ることが出来ない。中の様子が窺えない。

「ルカ! いないのか!」

 アクロは採光窓から内部に声を張り上げている。焦りの滲んだ声だ。こんな彼の声を、カウルは聞いたことがなかった。

 彼の目は、ある程度の暗闇を見通せる。例え内部に灯りがついていなくても、人間がいれば見えないわけがない。いないのか。いや、まだ断じるのは早い。どうしたって死角というものは存在するのだから。

「カウル、離れていてくれ」

 アクロは採光窓の縁に手をかけ、渾身の力を込める。外套の下の巨躯が、更に一回り膨らんだように見えた。

 素手で、雪洞を破壊しようとしているのか。本来であれば春が近付き耐久性の下がったところを、砕氷鎚を使い壊す雪壁である。

 それは流石に無理だ、と言いかけたカウルの耳に、獣のような唸り声と氷が上げる悲鳴が届き、嘘だろう、と思う間もなく派手な音を立てて雪洞の壁が崩壊した。

 信じられない。

 だが事実、それは目の前で起こったことだ。

 アクロは大きく空いた穴から内部を見渡し、ギシリ、と奥歯を鳴らしてカウルを振り返る。

「いない。頼む、彼を探すのを手伝ってくれ。貯蔵庫は埋もれきっていなかった。そう遠くへは行っていない筈だ」



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