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「これは……どう、解釈すべきか」
酋長の前に横たわるスムーとおぼしき獣の死骸。集まったみなは一様に、顔を強張らせている。
その骸の姿も、過剰に撃ち込まれた弩の矢も、何もかもが異様だった。
「ダグだ」
カウルがぽつりとこぼす。
「ダグは狩りが思い通りにいかず苛立つと、こうして獲物に無駄撃ちする癖がある。思うに、奴は魔石を使ってスムーを狩り回っていたんじゃないか」
「確かなことは言えないが、骸を発見した場所には、かなり濃い精氣の臭いが残っていた。可能性としては充分にあり得る」
カウルの言葉尻を、アクロが継いだ。
獣の骸を発見し、ルードに持ち帰った二人だ。
マナクの葬儀後、酋長は狩人たちに単独行動を禁じた。アクロはカウルと組み、ダグの捜索に当たっていたのだ。
「精氣酔いを利用したということか……」
「では、これは」
「スムーで間違いないだろう」
本来のスムーの数倍はあろうかという体躯に、異常な程発達した前肢。爪は刃物と見紛うばかり。急激に膨れ上がった筋肉に内側から裂かれ皹割れた皮膚。乳白色の柔らかい筈の被毛は硬くごわつき、砂を被ったように薄い茶色にくすんでいた。
元の姿とは全く別の──魔物になってしまうこの現象を、『変容』という。
魔物には二種類ある。
魔物の交配、もしくは種子によって生まれる『相承体』と、既存の生物が変容する『変容体』。
変容とは瘴気、つまり精氣が、あらゆる生物の中に存在する魔素に干渉することにより起こる現象だ。
強い干渉を受けた魔素は膨張と収縮を繰り返し、精氣酔いを引き起こす。その際の酩酊により理性の鈍化が誘起され、本能的な興奮を覚える個体も少なくない。
更に干渉が続くと魔素は膨張し続けるようになり、やがて限界を迎え、変容が始まる。
崩壊と再生。
変容を始めた肉体に起こるそれらは、一度始まってしまえばとめる手立てはない。
肉体とともに精神が引き裂かれ、元の姿と心を失った魔物となるか、再生を上回る崩壊に飲まれて死ぬか、或いは変容が始まるより先に、膨張した魔素が弾け飛び、心の臓をとめるかだ。
生きるにしろ死ぬにしろ、変容は存在を塗り替えてしまう。それだけに壮絶だ。現存する生物の多くは、変容に耐えられずに死に至る。故に現在変容体の数は非常に少なく、魔物の殆どは相承体だ。内地では魔物は魔物として扱われ、相承変容の概念すら失われて久しいだろう。
「スムーは本来、変容に耐えられる種ではなかった筈だが、この個体がたまたま変容に適応したのか」
「恐らくは」
そもそも正常な生物であれば、精氣の濃度が唐突に増した場からは逃げ出すだろう。それが己の体に毒となることを本能的に察しているからだ。
このスムーには、それが出来ない理由があった。
「見ろ、後ろ足は元の形から殆ど変わっていないにも関わらず、再生の痕跡が集中している。ここに怪我か病巣があって、逃げることも出来なかったのだろう」
精氣は大地が生み出す生命力だ。それそのものが毒である筈がない。
取り込んだ生体にとって都合の悪い箇所を修復することもまた事実だが、あいにく、生物の小さく脆い体に収めるには、大地という途方もない規模の生命力は強すぎる。
「相承体も、遥か昔は変容体だったことを思えばそうあり得ない話でもないが……痛ましいことだ」
「こうなると、ダグがスムーを狩り回っていたというのも納得出来る。通りで、荒れた様子もなく放置された巣が多かったわけだ。魔石を使って精氣酔いを起こさせれば、暴れられることもないだろう」
実際に不自然な空の巣穴をいくつもその目で見たカナンは、苦々しく息を吐く。
「それが、思わぬスムーの変容で失敗したということか。あの身勝手な男が腹を立てるには充分だな」
「そのやり方を、マナクにもしたのだろうか」
ぽつりと。発した一人の狩人。
グラム。マナクの異父兄で、マナクをよく理解していた。だからこそ、本当にダグがしたことなのかと疑問に感じていたのだ。
マナクは強い。ダグの腕では、マナクを殺せない。
「だが、魔石で精氣酔いを引き起こし、隙をついたなら、恐らく……」
殺せる。
グラムはカウルを睨み付けた。その拳は震える程強く握り締められている。
カウルは、視線を逸らさなかった。
しかし強張らせた顔を取り繕える程、達観も出来ていない。仮面の下の、まだ少年らしさを残す目が悲しげに揺れる。
そのカウルを背に隠すように前へ出たアクロは、ただ静かに、グラムを見据えた。
「グラム」
「…………わかっている。すまない」
結局、目を逸らしたのはグラムだ。彼もわかっている。血を分けた兄弟であっても、ダグとカウルは別の人間だ。カウルを責めたところで何の意味もない。
グラムの肩をカナンが叩き、グラムは「捜索に戻る」と言ってその場を後にした。
「すまなかったな、カウル」
カナンは、グラムの伯父に当たる。甥の態度を謝罪するカナンに、カウルは首を振った。
理不尽ではあるが、理解出来ない感情ではない。もし逆の立場だったらと思うと、腹を立てる気にはなれなかった。
「アクロ兄、庇ってくれてありがとう」
「……いや」
「長、ひとまずこのスムーを焼いてやってもいいだろうか。本来必要のない苦痛を味わった命を、せめて弔ってやりたい」
「……ああ、そうだな、そうしよう」
これはノマの狩りではない。ただの殺戮の犠牲だ。焼いて魂を天に還し、その安寧を祈る。それくらいしか出来ない。
それくらい、してもいいだろう。
◇ ◇ ◇
血は路、焔は導。
命を燃やし舞い上がる火の粉は、魂の軌跡。
アクロはただ静かに、宵闇を照らす葬送の火を見つめている。
「アクロ兄」
「……大丈夫か、カウル」
「そっちこそ」
隣に並んだカウルに気遣う言葉を投げ掛ければ逆に心配されて、苦笑を禁じ得ない。
カウルの背丈は、アクロの目元付近にまで届こうとしていた。いつの間に、と思う。ついこの前までまだ幼い子供だと思っていたのに。
「私は大丈夫だ。覚悟は、したからな。ただ、何故そこまで憎まれてしまったのか……どうすればよかったのかと、詮もないことを考えてしまった」
「……甚だ不本意だが、その辺りについては、ダグの気持ちもわからなくはない」
軽く息を吐くカウルに視線だけを寄越すと、彼は仮面の下で力なく笑った。
「誤解しないで欲しい、俺はあんたを疎んじたことは一度もないんだ。だがそれは、歳が離れているせいだろうとも思っている。どうしたって追い付けないのは、あんたが俺よりずっと大人だと思えるからだ」
「…………」
「あんたが並々ならぬ努力をして、今のあんたになったのはわかっている。だが自分が同じように努力をしても、きっとあんたの背中すら掴めない」
ルードの大人たちはみなアクロを誇り、讃えて、次期酋長となることが決まった。
その時カウルはまだ成人もしていなくて、他の子供たちとともに大いに喜んだことをよく覚えている。
「他のルードにだって、あんた程のノマはいなかった」
アクロは、自慢の兄だった。
「我欲少なく優秀で敬虔、分け隔てなくみなに優しくて、穏やかで、献身的。誰もあんたには敵わない、あんたは完璧すぎる。それが、凡人には眩しく、また憎らしく映る」
「…………完璧か……」
バチン、大きな音を立て、薪が爆ぜた。
ぶわ、と火の粉が広がり、その後もパチ、パキン、と断続的な破裂音が続く。「あいつら、また雑な処理をしたな……」とカウルが嘆息し、アクロは目を細めた。薪の調達と処理は、子供たちの役目だ。
「完璧など、なり得るものではない」
「…………」
新しい薪を一つ、火の中に放り込む。
「完璧に見せかけるための努力は、したがな」
努力をする必要があった。
そうすることで自分の価値を証明して、みなに認めて貰う必要があったのだ。
「そうでもしないと、私には居場所がなかった」
カウルが見上げたアクロの目は、炎を映し揺らめいて、その瞳孔を細く引き絞っている。
内地の人間より濃い肌色も、緩く波打つ黒い髪も、ノマに多く見られる特徴ではあるが、その青鈍色の目だけは、ノマとも、他のどの人間とも違った。
「魔物の子、だからか」
一瞬強く吹いた風が、周囲を舞う雪と炎を掻き乱す。
風に紛れさせるように、アクロは「そうだ」と小さく笑った。