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14 オルシュアの愛し子たち


 どうしたのだろう。

 上手く出来たと思ったのだが、どこか不足があっただろうか。沈黙したアクロに、少年は不安になって手元に視線を落とす。

 するとすぐに隣にやってきたアクロが、少年の頭をぐりぐりと撫でた。

「凄いじゃないか、よく出来てる」

「……ほんとに?」

「ああ、完璧だ」

 そう言われて漸く、少年は安堵の息を吐く。

 最後の一匹は、もっと速く捌ききった。アクロがまた、風を遮る壁になってくれたお陰で凍えずに済んだのだ。

「まさか、こんなに早く習得するとはな」

 褒められて、悪い気はしない。

 貯蔵庫内に張った干し紐に今回取り出した臓器をすべてかけ、ここでの作業を終えたふたりは揃って主室に戻る。

 火がつけられ、暖められた室内にほうと息を吐いた。

「寒かったろう。火に当たって暖まるといい」

「でもこれ、まだ何かするんじゃないの」

 山のように積み上げられたピュリエンの足。最早見慣れた雪洞の中で、その一角だけが異様な光景である。

「煮て、冷ましたら身を取り出して、乾燥させて終わりだ。今すぐ出来ることは少ない」

「ふうん」

「手持ち無沙汰ならこれを細かく切っておいてくれ。君の手のひらくらいの大きさがいい。長くよく燃えるから、薪代わりになるんだ」

 渡されたのはピュリエンの腹袋だ。盛大に顔をしかめた少年に、アクロは可笑しそうに笑う。

「さっきまでそれの中に平気で手を入れていたのに」

「……冷静になると、やっぱりキモい」

「ふっ、君の集中力は天賦の才だな」

 少年は腹袋を抱えて、火の側に座った。

 薪代わりにするなら、形はどうでもいいのだろう。適当にナイフを入れて裂いていくが、その過程でも少年の顔はしかめられたままだった。

 いや、だって、普通に考えて人間の頭より遥かに大きい蜘蛛の腹なんて気持ち悪いだろう。

 アクロの言う通り、先程までは集中していたからあまり気にならなくなっていただけで、普通に気持ち悪い。

 虫が特別苦手なわけではないし、空腹を紛らわすためにその辺りを歩いている虫を口にしたこともあるが、これはまた別次元の話だと少年は思う。

「……何笑ってんの」

「いやっ、いや、すまん、本当に、さっきはあんなに嬉しそうに、それの臓器を掲げていたのにと思ったら、今の嫌そうな顔が一層可笑しくて」

 沸騰した鍋の中にぶつ切りにしたピュリエンの足をガラガラと落とし込んだアクロは、少年の隣に移動して、少年の作業を手伝う。

「そんなに嬉しそうだった?」

「それはもう。自覚なかったのか?」

「うーん……達成感はあったけど……」

 正直、あまりよくわからない。

 加護編みもそうだが、集中出来る作業は、嫌いではないと思う。言った通り、達成感もある。達成感があるのだから、喜びはしたのだろう。

 だが、そんなに? という気持ちだ。

「なら、名前を呼んでくれたことは?」

「……は?」

「覚えてないのか。君が自発的に私の名を呼んだのは初めてだったから、大慌てで駆け付けたのに」

「…………」

 アクロが、慌てた様子で飛んできたのは、覚えている。それが何故なのかは少年にはわからなかったし、また深く考えもしなかった。

「それは……何か、ごめん」

「違う、謝らないでくれ、私は嬉しかったんだ。君が私を呼んで、君自身の喜びを、私にも教えてくれたことが、とても嬉しかったんだよ」

 少年は俯く。

 アクロが真っ直ぐに投げかけてくるこうした好意が、少年は苦手だ。

 肺と喉が潰されたように苦しくなるし、鼻の奥がつんとする。少年は煩く跳ねる心臓ごとそれらを不快に思うが、それは不快を表す感情ではないと、アクロは言うのだ。

 本当だろうか。騙されているのでは。この苦しさに襲われる度アクロを疑うが、彼は疑われていることを理解した上で、躊躇なく少年を甘やかそうとする。

 本当に、困っているのに。

「……名前って、呼ばれてそんなに嬉しいもの?」

「そうだな、少なくとも、私は嬉しい」

 これはノマの考え方だが、と前置きをして、アクロは静かに語りだす。

「人は生まれてくる際、空の器なんだそうだ。魂はオルシュアの星々の許にあり、名を付けることで初めて、魂を呼び、肉体に繋ぐことが出来るという。だから我らはみな等しくオルシュアの子であり、星々の祝福を受けている、という思想だな」

 名はよすがなのだ、と言う。肉体のよすが、魂のよすが、オルシュアとのよすがなのだと。

「この、最初に付けられた名を精名と言う。無垢なる名、という意味だ。精名はオルシュアに捧ぐ名であり、オルシュアが我が子を呼ぶための名なので、みだりに口にしてはならない。大抵の場合、精名の一部を呼名として使っている」

「アクロ、も?」

「ああ。アクロというのも呼名だ。精名は他にある。どちらも大切な名だが、やはり私はみなに呼んで貰える呼名が好きだな」

「ふうん……」

 やはり、自分にはわからない感覚だと思った。

 少年にも、一応の名前はある。物心つく頃はまだ、呼ばれていたような気がする。だがその内誰も呼ばなくなった。名付けた女でさえ、忘れたのではないかと思う。

 呼ばれる時は「おい」「ねえ」「お前」「あなた」「クソガキ」「赤いの」後は、「おにいちゃん」。

 妹が自分を呼ぶ声さえ分かれば、他はどうでもよかった。不便を感じたこともない。

 呼ばれたいと思ったこともなかったが、呼ばれるだけで嬉しいというのは、どういう感覚なのだろうと、少し興味は湧いた。

 だが少年が持っているのは、あの女が寄越した忌々しい名前だけだ。誰にどう呼ばれたところで、嬉しいなんて思えない。

「ねえ、アンタが、おれに名前を付けるとしたら、どんなのにする?」

 軽い気持ちだった。

 彼が気軽に「少年」と呼ぶように、簡単な渾名のようなものを付けるとしたら、どうするのか。

「私が、君に、名前を付けてもいいのか!」

 だから、こんな、前のめりに食い付いてくるとは思っていなかったのだ。

「や、えっと、付けると、したら! 仮に!」

「……仮。ああ、仮にか。いや、仮であっても、私が君に名を付けるとしたらルーカイシュカだ」

「ルー……?」

「ルーカイシュカ。オルシュアが愛する火の精霊たちの名だ。君の鮮やかな赤髪にぴったりだと思うんだ。どうだろう、気に入らないか?」

 どうだろうと、言われても。

 アクロの勢いに押されるかたちで首を振ったが、少年が気に入る気に入らない以前の問題な気がする。

 第一に、少年はノマの民ではないし、オルシュアを信仰しているわけでもない。

「罪人に、お気に入りの精霊の名前なんて、アンタのとこの女神様が怒るんじゃないのか」

「何、オルシュアはそんな狭量な女神ではないさ。君はもうその身で対価を支払った。つみびとの証しは消えはしないが、それ以上の責めはない」

「うぅん……」

「勿論、仮に、だからな。気に入らなければ他のものを考えるが……今後のことも考えて、名前はやはりあった方がいいぞ。何かと入り用になるだろう」

 そうなのだろうか。

 今まで名前が必要な場面に遭遇したことがないので、よくわからない。

 アクロは前のめりだった姿勢を正し、他の候補を考えているようだった。だがどれも口にした先から「違う」と言って撤回してしまう。

 終いにはナイフと腹袋を置いて腕を組み熟考し始めてしまうものだから、少年の方が慌てた。

 悩ませるつもりはなかったし、そんなに真剣になることだとも思っていなかった。

「なあ、さっきの名前、短くならない?」

「ん? ああ、短く呼ぶなら、ルーシャ……いや、ルカかな」

 ルカ。

 それなら短くて、覚えやすい。元になった名前の面影は残っているが、気後れする程ではないだろう。

「じゃあ、それでいい」

 これで解決だと思ったのに、アクロは何故か納得のいかない様子だった。

「どうせなら、君が気に入る名前がいいんだが」

 何だこの男面倒臭い。

 いいと言っているのだからいいじゃないか。若干の苛立ち紛れに、少年は腹袋を裂く。

「そもそも名前に、そこまでの執着がないし。大袈裟なものじゃなければ何でもいい」

「むぅ……」

「何でもいいから、アンタが呼びたい名前で呼んだらいい。どうせアンタしか呼ばないんだ」

 名前の重要性というものが、少年にはやはり理解出来ない。それを大事に思う人間がいることは理解した。否定もしない。だが、自分とは関わりのない価値観だ。

 好奇心で、自分に名前を付けるなら、などと聞いてしまったが、自分と彼の温度差に戸惑いしか生まれない。

 居たたまれなくなった少年は、早くこの話題を切り上げたかった。

 カラン、と小さな音がして、そちらを見れば床に仮面が置かれている。

(……は?)

 何、と思っている内に、手の中のものを取り上げられた。空になった両手はアクロの手のひらに纏めて包まれて、彼の唇と、素顔の額に、順に押し当てられる。

「────、────」

 アクロが小さく紡いだ言葉は、少年には聞き慣れない音だった。

 ノマの言葉なのだろうか。

 ただ彼の雰囲気から、それが多分、祈りの言葉だということだけは、理解した。

 伏せられた目蓋。睫が目元に影を落としている。

 綺麗な男だな、と改めて思った。

 人の容姿など気にしたことがないから他と比べることは出来ないが、初めて仮面を外したアクロを見て少年は確かに、綺麗だと思ったのだ。

 人とは違うという瞳も、綺麗だと思う。堀の深い目元も、整った鼻筋も、仮面で隠されてしまっているのが勿体無いとも。

 敬虔に祈る姿は、美しいとさえ。

 ぱちり、ふいに目蓋が開く。長くて濃い睫に縁取られた、青鈍色の瞳。

「君が、好きに呼べと言ったのだから、取り消しは聞かない」

「……え?」

 素顔のアクロは、その精悍な顔に悪戯っぽい笑みを浮かべて、先程の言葉の意味を教えてくれた。


『我らが母なる星々の神に捧ぐ、無垢なる魂の名はルーカイシュカ。焔の導きにより黎明を迎えた我らが兄弟に、永劫の光があらんことを』


 少年はあんぐりと口を開けて、目の前の男を凝視する。

 耳と、アクロの正気を疑った。

 だってそれは、その言葉は。

「なまえ、神様に捧げてるじゃん!」

「ああ、これで君もオルシュアの子だ」

「こんな簡単なことでなっちゃうの!? ノマの民でもないのに!?」

「元々そう堅苦しい信仰ではないからな。オルシュア信仰ではない内地の者と婚姻を結ぶ時も、こんなものだ」

「こん!?」

 あまりの動揺に声が引っくり返る。

 顔に血が上るのが自分でもわかった。

 違う、わかっている、今のはただの実例のひとつだ。勘違いなんてしてない。

 みっともない顔を隠してしまいたいのに、両手はいまだにアクロに捕まったままだ。

 こつ、と。額を合わされてしまったので、俯くことさえ出来なくて、少年はぎゅっと唇を噛む。

「ルーカイシュカを精名とし、呼名をルカとする。君が言う通り、今はまだ私だけの、君の名だ」

 今後この名を使うかは君に任せる、と目を細めるアクロは、何度も「ルカ」と呟いて、その響きを噛み締めていた。


「ルカ。私の可愛いルカ、ああ、いいな、ふふ、独占欲を刺激されてしまう」


 大切そうに。幸せそうに。

 ああ、まったく理解出来ない。

 もう勘弁してくれと、叫びたかった。



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