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 吹雪は、三日経って漸く止んだ。

 その早朝、早目の朝食を揃って終えた後のこと。

「今は止んでいるが、またすぐ吹雪くだろう。今の内に狩りに出る」

「こんなに積もってるのに」

「こういう吹雪の切れ間に現れる魔物がいるんだ。場所の目星は付けてある、問題ない。狩りの後は先にルードに戻るから、こちらに来るのは遅くなるかもしれない。それに……」

 身支度を整えたアクロは、寝床に座っている少年を見て言葉を濁した。

 それに、本格的に吹雪いたらここへ来ることも叶わない、ということだろう。

「火の使い方、覚えたし。アンタが持ち込んだ食料もあるから、おれは平気」

「……せめて熱が下がり切るまではと思っていたんだがな……」

 アクロは諦めたように吐息し、腰帯から取り外した小型のナイフを少年に渡す。

「食材を扱うにも、刃物はあった方が便利だろう。君もナイフを持っていたし、扱い方はわかるな? くれぐれも気を付けてくれ」

「いいの?」

「本当はよくない。怪我をしないか心配だ。が、私がここへ来られない可能性を考えると仕方がない」

 これを少年に渡すことで、アクロが不便をするのでは、という意味で聞いたのだが、余計な気回しだったらしい。

 アクロは体を屈め、少年の頭をくるりと撫でた。

 こつ、骨の仮面が、額に触れる。

「君に、オルシュアの加護があらんことを」

「……そういうのって、普通、見送る方が言うんじゃないの」

「君が言ってくれるのか?」

「おれは、神様なんて信じない」

「ふ、君はそれでいいさ」

 後ろ髪を引かれるような様子ではあったが、時間が惜しいと雪洞を出て行くアクロの背を見送った少年は、手の中のナイフを見て低く唸った。

(キヲツケテ、くらい、言えばよかった、かな)


 人を見送る言葉を口にしたことなんて、一度もなかった。




 雪洞の中は静かだが、採光窓や換気口から外の様子はある程度伺える。

 轟々と鳴る強い風が、吹雪を連れて来るのはあっという間だった。

 外はまだ十分明るい。

 恐らくまだ、昼を回ったくらいの時分だろう。

 常であれば昼食の準備を済ませたアクロに起こされる頃合いだ。習慣で勝手に目を覚ました少年は、よろよろと起き上がり、採光窓から外を覗く。

 想像通り、荒れ狂う白が周囲の景色を完全に塗り潰していた。

 こんな吹雪の中では、一歩先さえ見えないのではないか。そう思ったら背筋が冷えて、少年は慌てて毛皮にくるまった。

 寝床に戻って丸くなる。

(あの子は、今頃どうしているだろうか。ちゃんと暖かい場所で、安全に過ごせているだろうか)

 自分の体調が安定し余裕が出来てくると、考えてしまうのはどうしても妹のことだ。

 少年が泣いてばかりの母親を嫌っているのを知って、涙を堪えるようになってしまった泣き虫な妹。

 これまで、何の手がかりも掴めていない彼女は今どこで、どんな風に過ごしているのか。誰といるのか。元気でいるのか。心配で堪らなかった。

(……心配、と、いえば)

 もう一度小窓を見上げる。

 ここからでは入ってくる明かりしか見えないが、外は相変わらずだ。

 風の音は弱まるどころか、更に激しくなってさえいる。

(狩り、終わってるよな……もうルードに帰ってる、よな……?)

 外がこんな様子では、きっと今日はもう彼は来ないだろう。

 それはいい。

 この雪洞と、彼が置いていった物資がある限り、少年の安全は当分の間保障されているのだから、ひとりでどうとでもなる。

 だが、吹雪の中にいる、彼は。

(あいつだって、もうルードの雪洞にいる、筈)

 アクロがここを出て、もう何刻も経っているのだから。

 冬の過ごし方に慣れた男だ。内地の人間より寒さに強い体でもあるらしい。狩り場の目星は付けてあると言っていたし、きっともうとっくに狩りを終えている。例え獲物を狩れずとも引際は心得ているだろう。心配するだけ無駄だ。

(何でおれが、あいつの心配、なんて、しなきゃいけないんだ)

 ぎゅ、と強く膝を抱えた。

 いや、でも、大人のくせに、お人好しでちょっと抜けてるところがあるあの男が悪いと思う。

 雪洞を造っている最中にずるずると崩れ落ちるのを見た時は、本当に死んでしまったかと思ったのだ。

 後から聞いたら一日半、ほぼ休憩もせずにルードとここで雪洞を造っていたというのだから呆れる。

 こんな季節に徹夜までして。正気の沙汰とは思えない。

 ルードを大切に思っているのはわかるが、それならこちらは手を抜けばよかったのに。

『そんなことをしたら、君が凍えてしまう』

 それはそうなのだが、それがこの男に何の関係があるのか。

 彼が己の身を削ってまで少年を優先する理由が、少年にはわからなかった。

 大人はずる賢くて身勝手な生き物な筈なのに、どうして。

 理解出来ない。

 理解出来ないものは、怖い。

 怖い、筈なのに。四六時中彼が側にいたこの三日間、少年の眠りはかつてない安堵の中にあった。

 少年が横たわる寝床の側、手の届く距離にずっと彼はいて、少年と同じように、そこで眠る。

 それがまるで、守られている、ようで。

 このひとがいれば怖いものなど何もないのだと、教え込まれているようで。

 不安になる程、安堵した。

(いやだな……)

 守られていていい立場では、ないのに。

 少年は、妹を守らなければならない。少しでも早く探し出して、守りにいかなければ。

 それなのに、期待してしまいそうな自分が、嫌だ。

 かつて与えられなかった庇護を、この男に求めてしまいそうな自分に吐き気がする。

 脳裏に、あの女の気持ちの悪い笑みが甦った。ぞわりと鳥肌が立つ腕をさする。

 期待なんかするな。

 何も求めるな。

 他者は他者を奪い貪るものでしかない。与えられるのは気まぐれの施しで、春に降る雪より儚い幻だ。

 あの安堵に、慣れてはいけない。

 少年は寝床を漁り、ナイフを握る。使い込まれた持ち手。鞘を外せば、美しく研がれた刃がぬらりと姿を現した。

 結局、信じられるのは自分だけだ。

 自分だけでいい。

 鞘に戻したナイフを懐に抱き、再び膝を抱えて目を閉じる。


 ────ガサッ。


 どれくらい、そうしていたか。

 顔を上げたが、周囲は既に暗闇で何も見えなかった。

 ガサッ、ガサッ。

 風の音に紛れて聞こえる、雪を掻く音。

 自然の音、ではない。

 少年は手探りで、ナイフを握り、鞘を外す。

 変わらず吹き荒れる吹雪の中、人が来るとは思えない。

 ならば獣か、魔物か。

 魔物避けの香は雪洞の中に焚いていたが、その分外には広がり難く、またこんな吹雪では微かな香りなど吹き飛んでしまうだろう。

 ガサ……、一瞬音が止み、次には通路を通って来た、何かが。

「少年っ、怪我をしたのか!」

「…………ぇ?」

 暗闇に慣れてきた目が、見慣れた人影をどうにか捉えた。

「今火をつける、じっとしていろ」

 言うが早いかかまどに火が灯り、雪洞の中を淡く照らす。

 火に照らされ浮かび上がった人影──アクロの姿は雪まみれだった。

「なんで……外、まだ吹雪いて」

「そんなことはいい、どこを怪我した、見せてみろ」

 何のことを言っているのかわからなかった。

 アクロは少年の側に膝を付くと、ナイフを握る左手に己の手をそっと重ねる。

 そうされて初めて少年は、自分の手が震えていることに気付いた。

 誤魔化すように、首を振る。

「怪我なんか、してない」

「血の臭いがする」

 強くナイフを握るが、その指はやんわりとほどかれ、ナイフは結局取り上げられてしまった。

 それは、困る。

 手を伸ばそうとしたが、アクロの硬い声に叱られているような気がして、動かしかけた手を引っ込めてしまう。

 アクロは少年が握ったままの鞘にも目をやって、小さく吐息を落とした。

 鞘を握った指から、血が流れている。

 気付かなかった。手探りで鞘を抜き払った時に、刃が当たってしまったのだろう。

「驚かせたな、すまなかった」

 傷口に布を当てられ、肩に響かないようゆっくりと手を上げるよう指示される。

「血が止まるまで強く押えて、傷口は心臓より上に。そう、そのままで」

 ぱちん、とナイフを納めたアクロは通路の奥に姿を消してしまった。

 まさか、と。

 まさかまた、この吹雪の中を出ていくのだろうか。

 どうして。

 扱いに気を付けろと言われていたナイフで、怪我をしたのを怒ったのだろうか。

 呆れて、面倒になったのだろうか。

 殆ど無意識に寝床から立ち上がった少年は、しかし雪洞の真ん中で立ち尽くしてしまった。

 どうしよう。

 どうしたいのか、自分でもわからず呆然としてしまう。

 追わないと。

 何を言うべきかもわからないのに、追ってどうする。

 そもそも、自分が何かを言ったところで、一体、何に。

「どうした、立ち上がって大丈夫なのか」

「…………っ」

 ひく、と肩が揺れて、火傷が引きつった。

 ふらついた体を、通路から戻って来たアクロに支えられる。

「ほら、無茶をするな。あと手、上げていろと言ったろう、いつまでも止まらないぞ」

「……お、こって、出ていった、のかと、思って」

「怒る? 私がか?」

「外、吹雪、ひどいから、ぁ、あぶな」

 言い切る前に、少年の体はアクロに抱き上げられていた。

 そのままかまどの前に連れて行かれ、腰を下ろしたアクロの膝の上に乗せられる。慌てて降りようとしたがそれよりも早く、胴に絡み付くアクロの腕に阻まれた。

「心配してくれたんだな、ありがとう」

 とん、とん、と背中を叩かれる。

 こんな仕草で、赤ん坊をあやす大人の姿を見たことがある、ような気がした。

 自分は赤ん坊ではないと言いたかったのに、何故か息が詰まり、言葉が出ない。

「君の言う通り、外はひどい吹雪だったから、さっきの私は雪まみれだったろう? それを払いに行っただけだよ。何も言わずに行ってすまなかった」

 とん、とん。

 ゆるやかな心音の速度。

 もうずっと早鐘のようだった少年の心音も、宥められていくようだった。

 ────ああ。

 もう無理だ。

 手遅れだ。

 とっくに、手遅れだった。

 見捨てられたかもしれないと思っただけで、あの場所から一歩も動けなくなった。

 この世界にたったひとりで、取り残されたような気分になった。

 この男が与える安堵は毒だ。

 少年が欲しかったもの。圧し殺し続けた、憧れ。焦がれた分だけ傷が深くなると、焦がれることすら捨てた毒。

 決して飲み込んではいけない毒だった。

 もう吐き出せない。

 吐き出したくない。

 毒はとっくに全身に回って、抱き締められただけで目玉が溶け出してしまいそうなのに。

 今更これらを、吐き出すのなら。

 きっともう、血肉のすべてを吐き出さなければ意味がない。

 そうしてその後に残るのは、空っぽになった脱け殻だけだ。

 少年は、アクロの肩にしがみつく。

 外套のない、いつもよりずっと近い肩。顔を埋めれば、普段は外套の下に隠されている黒褐色の髪が頬を擽った。

 背中を撫でていた手が頭に添えられて、するり、するりと髪をすく。

 本当に、どうしてこんなことをするのだろう。

 どうしてこんな、ひどいことを。


 毒を呷った獣はただ踞り、死を待つしかないというのに。



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