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日常

作者: 花裏

 目覚まし時計の音が部屋中に鳴り響く。ゆっくりと目を開ける。視界の片隅に倒れた椅子が映る。冷たい床に手をついて身体を起こした。昨日の夜からつけっぱなしのテレビから、もうすぐ梅雨が明けるという話が聞こえてくる。

 近くに転がっていたスマホを手元に引き寄せて、起動。明るくなった画面が今日の日付と時間を教えてくれる。

 六月二十七日、午前六時四分。

 どうやらまた、ダメだったらしい。ため息をひとつ。やたら重い腕をのろのろとあげて、首に絡み付く縄を解きにかかった。


 一歩外に出ると、温い風が吹いてきた。夏用のセーラー服のスカートを揺らしていく。ずっと来ないままの夏の、その匂いがする。






 学校の玄関で靴を履替えていると、斜め後ろからおはよう、と声がかかった。振り向くと、猫の被り物をした女の子。


「矢田さん。おはよう」


 挨拶を返すと、矢田さん(正確には矢田さんの頭をすっぽり覆う猫の被り物)はにこりと笑った。被っている人の気持ちに合わせて表情が変わる被り物なんて、どこで手にいれたんだか。歩いていく矢田さんの後ろ姿を横目に、上靴に踵を押し込んだ。

 私は被り物の下の彼女の顔を、一度も見たことがない。






 隣の席のはるかちゃんは、いつも酸素ボンベを背負っている。テレビ番組なんかでダイビングをする人が背負っている、アレだ。

 ただし彼女はダイバーではなくごく普通の高校生で、着ているものもウェットスーツではなくセーラー服。そのせいでなんというか、いろいろとちぐはぐだ。

 重くないのだろうか、と見るたび思うのだけど、そんなものをわざわざ背負っていたくなる気持ちはわからなくもない。大勢がひとまとめに詰め込まれた教室は、時々ひどく息苦しい。

 それこそ、酸素の無い水の中みたいに。






 十分休みの三階の女子トイレは騒がしい。なぜなら、そのトイレには決まって彼女のグループがいるから。

 派手なメイクをして、頭に王冠をかぶったリーダーである彼女(名前は知らない)と、その配下である何人かからなるグループ。宝石が大量についた、無駄に高そうな王冠が蛍光灯の光に煌めく。

 別にどこに集まって話していようが構わないけれど、髪のセットやら化粧直しやらのためだけに数少ない洗面台を占領するのはやめてほしい。

 心の底から、ものすごく邪魔だ。

 幸い今日は隅の方で話していたので、手を洗ってさっさとトイレを出る。

 彼女たちを見かけると、嗤えてくる。どいつもこいつもくだらなくて嫌いだ。所詮こんな狭い世界でしか威張れない彼女も、そんな相手に媚びへつらう奴らも。


 そして、ああいう人たちを馬鹿にすることでしか心の隙間を埋められない、私も。






 昼休み、空き教室でひとりパンを食べていると、莉香がドアを開けて入ってきた。彼女は私にとって唯一、友達──と言えなくもない人間だ。


「咲、日本史の教科書持ってない?」


 隣に腰掛けながら、開口一番そんなことを聞いてくる。莉香は毎日、何かしら私に物を借りに来る。やり取りが面倒くさいので、いい加減自分で持ってきて欲しい。


「あるけど。授業出るの」


 足元に放り出していた鞄の中を探って、日本史の教科書を取り出す。先生が嫌いだとかで、サボりまくっていた日本史の授業にとうとう出る気になったらしい。差し出すと、彼女はありがとう、と受け取った。


「んー、ほんとは出たくないんだけど。先生とか親が流石にうるさくって」


 言いつつ彼女は購買の焼きそばパンを齧る。

 金に染めた髪。華やかなメイク。マニキュアに彩られた爪。香水の香り。短いスカート。動くたびしゃらしゃら鳴るピアス。

 莉香は、地味一辺倒の私とは真逆の格好をしている。共通点といえば、クラスでグループに入らずに一人でいることくらい。我ながら、何でこんな奴と仲良くできているのか謎。


「今さら真面目に授業出たところで単位足りなくない?」


「それは思うー」


 莉香は教科書をぱらぱらめくり、文を読んでは、全然わかんなーい、と笑っている。つられるようにして、私も笑った。

 私は彼女の、自由気ままであっけらかんとしたところがわりと好きだ。





 

 五時間目の授業というものは、絶望的に眠い。うつらうつらしながら、黒板に連なる数式をなんとか書き写していく。ノートに並ぶ、ミミズがのたくったような文字。

 教壇に立つ橋本先生は、今日も今日とて仮面をしている。白い地に黒でにっこりマークが描かれた仮面。子どもの落書きみたいなその笑顔は、感情なんてなくて気味が悪い。笑いかけられているのに、妙な圧を感じる。

 私の知る限り橋本先生は怒ったことがない。常に仮面の笑顔によく似合う朗らかな声で話す。そのおかげか、大半の生徒から「優しい」、「面白い」、「話しやすい」と好かれている。聞いたところでは、先生たちの間での信頼も厚いらしい。

 でも、私はこの人がずっと苦手だ。できればあまり近づきたくない。なぜなら、何を考えているか全くわからないから。わからないものは、怖い。

 考える。あのハリボテの笑顔の裏で、彼はいったい何を思っているんだろう。

 





 本日最後の授業の終わりを告げるチャイムの音。やっとだ。やっと帰れる。学校にいる間は、時間が引き伸ばされているようだ。

 ごく短いホームルームのあと、教科書とノートを鞄に放り込んでとっととクラスを出た。階段を一段飛ばしで降りる。ほとんど一番乗りで校門を抜けた。学校の外に出ると、やっとまともに息ができるようになる気がする。

 見上げた空は、重く暗い灰色。早く帰ろう。雨が降りそうだ。






 リビングには、テレビから流れる知らないロックナンバーがうるさく響いている。リモコンを手にとって、チャンネルをぱちぱち変える。

 バラエティの芸人の話。今日のニュース。音楽番組の出演者。ドラマの内容。その全てが、昨日と同じだ。何一つ変わっていない。


 棚の中から縄を取り出して、カーテンレールに結びつける。でたらめな鼻歌を歌いながら、カーテンレールに結んだのとは逆の先端を輪っかになるように結ぶ。椅子を持ってきてぶら下がる縄の真下に置く。


 私はこの繰り返しの日常が嫌いだ。大嫌いだ。だからこれは、こんな日常に対するささやかな抵抗だ。

 こんなことをしても、きっと何も変わらない。いつもと同じように、縄が切れて床に落っこちて、朝起きるだけだ。そうしてまた学校に行って、矢田さんやはるかちゃんに会って、トイレであのグループを見かけて、莉香とお昼を食べて、橋本先生授業を受ける。


 でも、もし、百万が一。

 日常を抜け出せたら。違う“明日”が来ていたら。

 その時は、私も変わろう。今度はもっと、自分の思うままに、好きなように生きてみよう。


 さあ、明日はどうなっているだろう。私はどうしているのだろう。それを考えると、ほんの少しだけわくわくする。

 部屋の電気を消す。テレビはつけっぱなし。椅子の上に立って、自分の首を縄の輪っかの中にいれる。


「おやすみなさい」


 私は笑って、椅子の上から飛び降りた。


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