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スフィンクスと記念撮影した男たち  作者: 明智龍之介
第1章 横浜
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1864年1月1日 太平洋上

 1864年1月1日 太平洋上


 青木はひとり、甲板に出て日の出を拝もうとしていた。

 フランス料理に胃もたれを起こし、大半の日本人使節団員が苦しんでいる。今回のフランス軍艦借用の条件の中に、どうやら食事は全てフランス料理という誓約があったらしい。その結果、洋食に全く慣れない人々は腹の具合がずっと悪いままだった。青木と同室の堀江や三宅などは食前食後ずっと腹痛を訴えている始末で、毎日毎日彼らの訴えを聞かされるハメを負っている。

 パンはまだ臭いがないからいいが、何となく気持ちが悪いものだと青木は感じていた。米に慣れている身としては、どうにも喉を通って行かない。あの水分の無さ…パサパサ感…。さらに牛肉などは獣臭い。よくあんなものが毎日フランス人は食えるなと思ってしまう。…かと言って2・3日何も食べずにいると今度は空腹に耐えられなくなる。このエンドレス・スパイラルに各々の体力も限界に近づいている。

 

 青木は、こっそりと懐に手を入れた。そこには、焼きたてのお餅がひとつ入っている。青木は大のお餅好きなため、出港するときに荷物の中にいくつか忍ばせておいたのだ。これを正月、フランス軍艦の甲板の上で食べることになるとは、青木も思っていなかった。

 青木は大きく口を開けてお餅を頬張った。お米の柔らかく甘い香り、味が口全体に広がる。そして、胃の中にストンと優しく落ちていく。

 「うぅぅ…お餅、サイコ~!!ぃいやっほ~いぃ!!!」

 青木はひとり、拳を振り上げて小躍りした。日本人に生まれてよかった…と大げさながら思ってしまった。

 ほの暗い海面が、徐々に光を帯び始める。ようやく日の出だ。

 青木は太陽に向かって静かに手を合わせた。これから前途多難な日々が青木を待っていることだろう。“フランスという異国の地へ無事に渡り、夢が叶いますように…”青木はそう心の中で祈った。

 その時、何かが肩に触れた。それは、触れたか触れないかという程度の微妙な加減だったが、青木はすぐに後ろを振り返った。

 そこには、青白い顔をした男がひとり、佇んでいた。

 「どわぁ!!」

 幽霊でも出たかと思い、青木は腰を抜かしてその場にヘタれ込んだ。足は“わなわな”と震え、顎が“ガクガク”と鳴った。

 しかし、よく見るとその男はどこかで見たような顔をしていた。

 「…あおきくん…。」

 男が喋った。今にも消え入りそうな弱々しい声…。胴体も向こうが透けて見えそうな感じがした。

 「あ!…もしかして、お奉行様ですか?」

 青木は思わず大声を上げていた。この使節団の団長で、確か池田と言ったか…。あまりの変貌ぶりに青木は気が付くまでに時間がかかってしまった。

 池田は弱々しく顔の前で手を振った。

 「ははは…。しょうがないよね、気が付かなくても。自分でも変貌ぶりに驚いてるくらいだからさ。」

 池田は必死に笑っているが、青木は全く笑えなかった。

 「どうしたんですか、お奉行様?船酔いですか??」

 「それもある。それもあるが…。」

 そこで池田は言葉を切った。そして、次の瞬間に池田は青木の両手を“ぎゅっ”と握って叫んだ。

 

 「青木君!!…米を喰わしてくれんか!?」


 「え…コメ?」

 青木の言葉に、池田は何度も頷いた。

 「そう!お米!ご飯が食べたい!!何なら粥でも構わん!!!」

 「ちょ、ちょっと、落ち着いてくださいよ、お奉行様…。」

 唾を飛ばして迫ってくる池田を、青木は手で制した。しかし、それでも池田は食い下がる。これでもかというくらいに青木に顔を近づけてくる。

 「私が連れてきた家来達は、みんな腹痛に悩まされて使いモノにならないのだ!!他の奴らも同じようなものだ…。その点、青木君は違う!君はまだ生気がある!!!」

 青木は内心、冷や汗を流した。何故、生気があるのか…それはこっそり内緒で食べているお餅の御蔭です、とは口が裂けても言えない。青木は何故か抱く必要のない罪悪感を抱いた。

 “まぁ…お奉行様の頼みなら、仕方ないか…。”

 本来、理髪師である青木は外国奉行である池田と直接話しが出来るような身分ではない。池田は1,200石と石高は少ないものの、身分は旗本なのである。その旗本であり外国奉行である池田が、青木の手を取って懇願しているのだ。

 「君の力が必要なのだ、青木君…。頼む…私を救ってくれ!!」

 仕舞いには池田は涙を流し始めた。こうなると、どうにも居たたまれない。

 「わかりました、お奉行様!」

 青木も池田の手を握り返した。細々とした、冷たい枯れ枝のような手だ。

 「実は…このフランス軍艦の積み荷の中に、米俵があります。もし我々がどうしても日本食を口にしたくなった時のために積んであるそうです。その存在を公にすると略奪戦が始まりますから、こっそりと積まれているようですが…。そこから少々、米を拝借しましょう。」

 青木の言葉に、池田の目がみるみるうちに生気を取り戻した。そして、無言で青木を強く抱きしめた。

 「お~、神よ!!」

 間違いなく池田は仏教徒であろう。しかし、この期に及んでは釈迦だろうがキリストだろうが、救ってくれるのであれば何でも構わないといったご都合主義である。

 「では早速、米を炊いてくれ!青木君!!」

 爛々と目を輝かせながら、池田が微笑んでいる。しかし、青木はすぐに黙り込んだ。その姿を心配そうに池田が覗き込む。

 「…どうした、神よ?」

 「いやいや、私は神ではなくて理髪師ですから。カミ違いです。それより…米はいいんですが、水をどうしようかと思いまして。」

 航海中では飲み水は貴重であるために、米を炊くために使うわけにはいかない。そうなると、米を炊くために使える水がない。

 「水なら腐るほどあるじゃないかぁ!!」

 池田が指差した方向に広がっているのは、一面の海である。青木は無言で池田を見つめた。あまりに真剣な、屈託のない表情をしている池田に、青木は目を丸くした。

 「あ、あのぅ…海水でご飯を炊く気ですか?」

 青木の言葉に、池田は嬉しそうに頷く。

 「一緒でしょ?真水も海水も。」

 「いやいや、全然違いますよ!お奉行様は海水を飲んだことがないのですか?」

 「あるよ!失敬だな!!」

 「…どんな味、しました?」

 「どんなって…塩辛いよね当然、海水は。」

 「その塩辛い海水でご飯を炊け…と?」

 「そうだよ。美味しそうじゃん?簡単に言うと塩むすびが出来るわけでしょ?」

 青木は軽く頭痛に襲われた。懸命に首を横に振る。

 「いやいやいやいや、そんな単純なものじゃないですから!!それに、海の水はお奉行様が思っている以上に汚いですよ!魚の死骸やら糞やらが大量に溶け込んでますし、ここの乗組員の排泄物や吐瀉物だって海に捨てて…。」

 「あ~うるさいうるさいうるさいうるさい!!!」

 池田が突然大声を上げて発狂し始めた。そして、ものすごい力で青木の肩を鷲掴みにしてきた。

 「どうした、救世主よ!?俺は海水だろうと何だろうと全く気にしないぞ!!粥が食えればいいのだ!味なんて気にしないさ。あの米の風味を味わいたいんだ!!!故郷の味を舌にのせたいのだぁ~!!!!」

 “がくがく”と前後左右に体を揺さぶられて、青木は軽く眩暈がした。それでも言うべきことは言わないと…と思い、青木は必死に抵抗した。

 「米の風味が、海水によって消されると思いま…。」

 「いいから!!ツベコベ言わずに頼むよ、青木君!たのむよたのむよたのむよ~!!」

 池田は頑なに譲らない。これ以上言っても仕方がないと諦めた青木は、とりあえず何度も何度も頷いた。

 「わかりましたから、放して下さい!!」

 ようやく解放された青木は、荒れ狂う海原を見つめて呟いた。池田の言う通り、海水であれば無限にある。美味しい粥が出来上がるかどうかは別にして…。

 「さて、じゃぁ海水を汲み上げますか…。でも…。」

 青木は少し逡巡した。冷たい強風に高い荒波…。この状況下で、どうやって海水を汲み上げればいいのだろうか…。


 「ちょっと~!!おろしておろしておろして~っ!!!」

 田中廉太郎がロープで縛られた状態で高々と吊るされている。田中はふんどし姿で、手には桶を持たされている。田中を縛っているロープは滑車を通して甲板に降ろされ、使節団のメンバーの手にしっかりと握られている。荒れ狂う波と強風で身体が海に持って行かれそうになるため、何人かは帆柱にロープで体を固定している。盤石の態勢で、誰もがその時を待っている。

 「田中く~ん!粥のためだ!!しっかり仕事してこいっ!!!」

 池田が満面の笑みで声を上げ、両手を振っている。田中は涙と鼻水を滝のように流しながら必死に足をバタバタ動かしている。まるで蜘蛛の巣に引っかかった蜻蛉のようだ。

 「ヤダよ!!!何で僕なのさ~!僕はまだ22歳だよ~。未来ある若者だよ~!!?」

 「ダマらっしゃい!!」

 44歳の河津が大声で叫んだ。この2人は反りが合わない。他のみんなもニヤニヤしながら田中を見つめている。ある意味で“愛されキャラ”である。

 「いいか~ぃ、田中くぅ~ん?君をこれから海に落とすからね~。君はね~その手に持っている桶にね~海水をたっくさん汲んでくればいいからね~。」

 「むりむりむりむりむりっ!!ど~して僕なの!?こんな波の高い海に飛び込めなんて無茶だよ~っ!!」

 「行けるっ!元気があれば何でも出来るっ!!」

 池田がそう言うと、甲板にいるメンバーから自然と拍手が沸き起こった。みな他人事である。

 池田が大きく手を挙げた。

 「よしっ!!ロープを降ろせっ!!!」

 “するするっ”とロープが地上を跳ねて飛んでゆく。それと反比例して田中の体が海へと落ちてゆく。

 「どわぁ~っ!!!!!」

 悲痛な悲鳴とともに田中が荒れ狂う海に、まっしぐらへと落ちていく。“ザバーン”という音と、白い水飛沫の中に田中が消えてゆく。一瞬の静寂が訪れた。

 「よし、引き揚げ!!」

 池田が手を振り下ろすと同時に、甲板に出ていたメンバーが一生懸命ロープを手繰り寄せる。すると海中からズブ濡れになった田中が、ゆっくりと宙を舞うように“ゆらゆら”と上ってくる。

 田中は顔面を“ぐしゃぐしゃ”に濡らして泣き喚いている。

 「こ、殺す気かぁっ!!!」

 しかし、甲板にいる誰も田中の顔など見ていなかった。全員の視線が田中の持っているであろう桶に注がれる。

 「あ!!あいつ、桶持ってない!!!」

 河津が叫んだ。池田は急いで田中のところに駆け寄った。

 「何故だ!?何故、桶を放した!!?」

 「バカァ!!僕の心配してよ~っ!!!」

 泣きじゃくる田中。地団駄を踏む池田。笑いを必死に堪える甲板のメンバー達…。

 池田は“くるっ”と踵を返した。

 「うん。では気を取り直してもう一度。」

 池田の背後から田中の言葉にならない絶叫が木霊したが、池田はそれを完全に無視した。


 そこへ、涼しい顔をして通訳の塩田がやってきた。

 「あれれ?賑やかですね。どうしたんです?お祭りか何かですか?」

 相変わらず身振り手振りが激しい。池田は少し眉間に皺を寄せたが、すぐに平静を装った。

 「いやぁ、海水を汲もうと思ってね。でもこの船の高さから手桶で海水は汲めないだろう?だから田中君をロープで縛りつけて、彼に桶を持たせて海に突き落としているんだがね~。いやはや、うまくいかなくてね。」

 池田の言葉に、塩田は一瞬だけ沈黙した。そして、(おもむろ)に口を開いた。


 「…桶をフックか何かに掛けて、フックをロープに縛り付けて海に放り投げればいいんじゃないですか?釣瓶落としみたいな感じで…。敢えて人を落とさなくても…。」


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