1863年12月29日 横浜港
1863年12月29日 横浜港
その日は、門出に相応しく晴天に恵まれた。
フランス軍艦モンジュ号を目の前にして、使節団正使の池田筑後守長発と、副使である河津伊豆守祐邦は口を大きく“あんぐり”と開けていた。
「この軍艦に乗ってフランスまで…?」
池田が独り言のように呟いた。日本では見たことがないような大きな軍艦である。ペリー提督率いる黒船が4隻、浦賀沖に来航したときはきっとこういう気分だったのだろうと、河津は思った。黒い鉄の塊が2人を見下ろしているその姿は、不気味で異様だった。既に出発前に、2人は外国という大きな得体の知れない物体に圧倒され、その精神が呑み込まれようとしていた。
「いえいえ、この軍艦は上海までです。そこからまた別の船に乗り換えますよ。」
そう言ったのは、通訳の塩田三郎だ。この使節団には塩田を含め通訳が4名同行することになっている。彼らがいなければ外国人とコミュニケーションが全く取れない。交渉をしに行く彼らにとっては必要不可欠な人材だ。
「さぁ、どうぞ。ご案内します。」
そう言って、塩田が池田と河津の前に立って誘導した。
「もともとこのモンジュ号は、フランス東洋艦隊の一翼を担っている重要な軍艦なんです。それを、わざわざフランス本国まで訪ねてくれるということで、我々使節団のためにフランス皇帝の御厚意でこの横浜まで回してくれたんですよ。」
“すらすらっ”と塩田が2人へ説明してくれる。話しをしている間も、塩田の両手は忙しなく動き続けている。そのジェスチャーが池田は好きになれなかったが、池田も河津も彼の説明を黙って聞いて頷いている。
「この軍艦の中で出される料理の賄いも、フランス政府負担なんですよ。それも遥々フランスまで来てくれることへの感謝の気持ちの表れ、御厚意だそうですよ。本場のフランス料理なんて食したことがないので、楽しみですよね。」
「えっとぉ…塩田君は、どこでフランス語を?」
池田が尋ねた。すると、塩田は人懐っこい笑顔で応えた。
「私はつい先日まで箱館にいたんですよ。そこで礼拝堂建設のために箱館を訪れていたメルメ・カション先生と知り合いまして。同居して生活を共にしながら、そこで色々と教えて頂いたのです。」
「カション…?もしかして、あのベルクール殿の通訳の…?」
河津が言った。ベルクールとは初代駐日フランス公使のギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールのことである。何とも舌を噛みそうなこの男こそ、“横浜鎖港談判使節団”の提案者でもあるのだ。
塩田は嬉しそうに頷いた。
「あ、そうですそうです。ベルクール氏にカション先生が呼ばれてフランス公使館へ…それで私も箱館から江戸へ戻ってきたんですよ。」
「す…すげ~。」
池田は感嘆の声を上げた。フランス人に囲まれた生活など、とても想像出来ないと池田は思ったが口にはしなかった。何故ならこの先フランス軍艦内では、ほとんどがフランス人なのだから…。
「ところで、塩田君はいくつなのかね?」
河津が尋ねた。塩田は相変わらず爽やかな笑顔で答えた。
「18歳です。」
「じゅ…?」
河津と池田はお互いに顔を見合わせた。
若い。池田はまだ27歳で若い方だと思っていたが、さらに年下が使節団の中にいるとは…。しかも通訳だなんて。
「あ~、俺はもうおじいちゃんだからなぁ…まぁお手柔らかに頼むよ。」
そう河津は苦々しげに言った。河津は今年44歳になる。
甲板に案内された2人の前には、奇妙な光景が広がっていた。
「あ…あれは…?」
甲板の上に、馬小屋のようなものがあるのが目に入った。簡易な掘っ建て小屋みたいな粗末なものが、乱雑に並んでいる。
塩田は“にこにこ”しながら言った。
「これもフランス政府からの御厚意です。ご覧ください!」
そう言って、塩田は2人を粗末な小屋へと案内した。中は狭く仕切られていて、なんと畳が敷いてあった。
「た…畳?フランス軍艦の甲板に何故、畳が…??」
困惑する2人に対して、塩田が人差し指を振って“ノンノン!”という仕草をした。
「で・す・か・ら、フランス政府からの御厚意なんですよ。“日本人は畳の上で寝起きする”と聞いたフランス政府が、わざわざ我々のために寝る場所を日本仕様にして下さったんです。」
塩田の言葉に、池田も河津も表情が固まった。
「…え?寝るの、ここで??」
「はい!」
塩田の元気のいい返事とは裏腹に、池田と河津は硬直したまま畳を“じっ”と見つめている。
「…寒くね?」
池田が“ぼそっ”と言った。
今は12月29日。年の瀬だ。真冬の寒さの中を、甲板という屋外で畳に寝かされるなんて…。
「うん…。それに、畳が敷いてあればいいってもんでもないしね。」
池田の言葉の後に続いて、河津も呟いた。
「背中…痛いだろうね。俺、おじいちゃんだからさぁ、お手柔らかに頼むよ…。」
2人の胸中に、不安が渦巻き始めていた。