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スフィンクスと記念撮影した男たち  作者: 明智龍之介
序章
2/18

1863年9月5日 江戸城

1863年9月5日 江戸城


 江戸城内の、とある狭いひとつの部屋の中で、大人が3人肩を突き合わせて何やら“ひそひそ”と話しをしている。

 「弱ったなぁ…。」

 そう言って“ガックリ”と項垂れたのは、老中である板倉伊賀守勝静である。彼は渋い表情を浮かべたまま、扇子で自分の肩を“とんとん”と叩き続けている。

 「立て続けに事件が起きてますね…。」

 嘆息交じりに呟いたのは、同じく老中の松平周防守信義。眉間に深く縦皺が刻まれている。そのことからも、事の深刻さが覗える。

 「まぁしょうがないんじゃないですかね、起きちゃったもんは。」

 楽観的な発言をして、2人から冷たい視線を浴びたのは新参者の老中、井上河内守正直だ。彼は自分の発言が場違いなものだとは微塵も思っていなかった。そういう空気の読めない人間というものは、どの時代にでもいるものなのだ。

「しょうがないじゃ済まないでしょ!?人が死んじゃってるんだから!!」

 板倉が声を荒げた。それに続くように松平が苛立たしげに言葉を発した。

 「しかもフランス人だし。」


 先日9月2日に、横浜の井土ヶ谷という村でフランス士官のカミュ氏が殺害されるという事件が起こった。

カミュ氏は横浜居留地の警備のために井土ヶ谷村を訪れていたところ、攘夷浪士3人に襲撃されたらしい。カミュ氏の他にもフランス側に2人の同行者がおり、その目撃証言が取れている。犯人はすぐにその場から逃亡したために行方知れずとなっており、現在も捜索中である。

 「犯人が見つかってないんだよなぁ。これじゃマズいよね~。」

 板倉は再び頭を抱えた。松平も唸り声を上げて首を捻った。

 「攘夷決行の勅命が出されてから、これで何件目の事件になりますかね…。」

 5月10日に孝明天皇による『攘夷勅命』が出されている。…このあたりの経緯を説明しようとすると、歴史の教科書のような語りになってしまうので気が引けるが、それを説明しないと先に進めないので、一応説明してみようと思う。しばしお付き合い願いたい。

 話しは1858年まで遡る。アメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督が浦賀に黒船を率いて来航した5年後のことである。そもそも当時の大老であった井伊掃部守直弼という人物が、朝廷の許可を得ないまま勝手に日米修好通商条約を結んだことに端を発する。

 本来、諸外国との外交というものは朝廷の分掌であり、幕府に権限はない。しかし、朝廷は大の外国人嫌いであり、鎖国を解くなどということは論外であり、全く了承しなかった。だがこのまま行けば外国が攻めてくる…。そこで、幕府は帝の承認を得ぬままに勝手に条約を結んだという顛末である。

 これに怒ったのは孝明天皇である。“すぐに鎖国攘夷を行え!”という命令を下した。幕府としては、井伊直弼が桜田門外で暗殺されたり、老中である安藤信正が坂下門外で襲撃されたり…皇女和宮を将軍徳川家茂に降嫁させる公武合体を進めたりと、のらりくらりと誤魔化していたのだが、遂に1863年3月4日、第14代将軍である徳川家茂は徳川将軍家として229年ぶりに上洛し、その席で義兄の孝明天皇から5月10日までに攘夷を実行するよう約束させられてしまった。それが『攘夷勅命』である。

 『攘夷勅命』に従って、まずは長州藩が動いた。攘夷実行期日である5月10日に下関港に寄港していたアメリカ商船ペンブローク号へ砲撃を開始。これが下関事件と呼ばれている。

 その後、8月15日にはイギリスが薩摩藩に攻めてくるという騒動が勃発。薩英戦争と呼ばれるこの戦争は、前年に起きた薩摩藩によるイギリス人殺害(『生麦事件』)の報復として実行されたものであり、結果は鹿児島城下、市街地の10分の1が焼失した。

 そして…今度はフランス士官の殺害という流れである。


 「俺は攘夷が正しいと思いますけどね。」

 そう言ったのは、井上である。その言葉に、板倉も松平も目を丸くした。井上は全く気にしない様子で唾を飛ばしながら熱弁を振るった。

 「だって、ここは日本国なんすよ?俺たちの国じゃないですか。俺たちの国がどういう方針で政治を行っていようが自由じゃないっすか。外国の無関係な輩に口出しされる謂れはないでしょ?」

 「い・の・う・え~!!!」

 板倉が扇子を“パシパシッ”と畳に叩き付けた。乾いた良い音が鳴った。

 「君は幕府の老中格になったんだよ!?私見をベラベラしゃべって良い立場じゃないの!!」

 「…何で?」

 「何でぢゃねぇ!!!お前の発言がそのまま幕府の発言として捉えられるようになんの!幕府は今、開国路線だからっ!!老中である君が、攘夷の方が正しいって言っちゃダメなのっ!!!」

 「板さん、落ち着いて!!周りに聞こえたらどうするんですか…。」

 松平が人差し指を突き立てて唇の前に押し当てながら、必死の形相で“キョロキョロ”と周囲を見回している。ここは江戸城の一角の居室である。誰かが近くを通りかかって聞き耳を立てたり、ふと中に入って来たりしないとも限らない。

 板倉は肩で息をしながら、鼠を威嚇する猫のように全身の毛を逆なでて井上を睨み付けている。井上は視線を外し、畳の目を指でなぞっている。

「…で、どうします?」

 松平が板倉の方を見て尋ねた。板倉は腕を組んで唸った。

「フランス公使には謝罪したんですよね?だったらそれでいいじゃないですか。」

 井上が“お手上げ”のポーズを取りながら言った。板倉は“キッ”と井上を睨み付けた。

「子どもの喧嘩じゃないんだぞ?謝ったから全てが丸く収まるという単純な話しぢゃねぇの!これは、国家の問題なんだからっ!!国家の問題は、国家として正規の手順をしっかり踏まえなきゃいけないっていう大人の事情があんの!!」

「コッカ?…大人のジジョウ…??」

 井上が首を捻る。板倉が苛立たしげに扇子で畳を叩く。

「カネだよ、カ・ネ!!賠償金の問題になるってこと!」

「…支払わなければなりませんか、やはり。」

 松平が渋面を作った。板倉も同じような顔をしている。

「フランス公使からは、使節団をフランスへ派遣して正式にフランス皇帝に謝罪し、今後の日本の在り方を相談するのがよろしい…と助言されたんだけどさぁ…。」

「ふ…フランス皇帝って…確か、あのナポレオン・ボナパルトの甥っ子さんですよね…?」

 英雄(エロイカ)ナポレオン1世の情報は日本にも伝わっている。その稀代の英雄の甥っ子に謁見するなど、松平は想像するだけでも背筋が“ゾッ”とした。

そんな松平を余所(よそ)に、“はんっ!”と鼻を鳴らしたのは、井上である。

「まさか、そんな馬鹿みたいな提案に乗る気じゃないでしょうね?」

「バカとは何だ!バカとは!!?」

 板倉が立ち上がった。それを松平が必死に制する。

「板さん、だから声が大きいですって…。」

「だってさぁ、目上の人間にバカとか言ってんだぜ、こいつ!口の利き方ってもんがあんだろうよ、口の利き方ってもんがさぁ!!」

 板倉の顔が真っ赤になっている。頭から湯気が出そうな勢いである。逆に、いたって冷静な井上は半笑いで板倉の肩を叩いている。

「板倉さんに馬鹿と言ったわけじゃないじゃないっすか。私はフランス公使に馬鹿って言ったんですよ~もぉ。は・や・と・ち・り~。」

「…お前ごときが、どのツラ下げてそんなデカイ口叩いてんだっ!!」

 今にも井上に掴み掛りそうな板倉。その板倉を松平が羽交い絞めにする。


 5分後…。ようやく落ち着いた3人は、改めて対応を協議している。

 「やはり、使節団を派遣する方がいいでしょう。」

 そう言ったのは松平だった。冷静な口調で、松平が滔々と説明する。

 「日本国としてキチンと謝罪することが、今後の国際社会の中で認められていくのに必要不可欠だと私は思います。また、ここで外国に使節団を派遣することによって攘夷派を宥めるという効果も期待出来るかと思います。」

 「…攘夷派を宥める?」

 板倉が首を傾げた。松平が力強く頷く。


 「攘夷勅命の趣旨を、フランスやイギリスに了承してもらうという任務を使節団に課しましょう。」


 松平の発言に、板倉が“えっ!!”という大きな叫び声を上げた。

 「ちょっとちょっと、松ちゃん。頭おかしくなっちゃったの?」

 「私は正気です。」

 「いいですね。その考え、俺も賛同しますよ。」

 そう言ったのは井上だ。親指を“ぐっ”と自分の顔に向けて爽やかに微笑み頷いている。対照的に顔が蒼ざめているのは板倉だ。微かに彼の手が震えている。

「フランスがそんなこと認めるとホンキで思ってるの、松ちゃん?」

 板倉の問い掛けに、松平が“ニッコリ”と笑ってみせた。

「いえ、思っていません。」

 板倉は目を点にさせた。そして、高速で瞬きをしている。

「…どゆこと?」

 井上も話しに付いていけてない。松平は大きく息を吸った。

「攘夷勅命の中に、横浜港を閉鎖するということが提示されています。それをイギリスやフランスに認めてもらうという使命を使節団に課すのですよ。」

「だ・か・ら、それはさぁ…。」

「分かっています。フランスはそんなこと了承するわけがないでしょう。」

「え、何で何で?」

 井上が首を傾げながら言う。井上が更に何か言おうとしたところで、板倉が井上の目の前に掌を翳した。

「お前は黙ってろ!話しがややこしくなる。」

 板倉は顎で松平に先を促した。松平は無言で頷く。

「フランスが了承しないことは百も承知で使節団を派遣します。要するにパフォーマンスです。それを知らない朝廷や攘夷派の人間は、幕府がようやく攘夷のために動いたと錯覚します。しかし、使節団が持ち帰ってくる結果は“鎖港出来ない”という回答です。おそらくこの答えを持ち帰ってくるまでに、半年以上はかかるでしょう。その間に朝廷を説得し、開国の必要性を説くのです。」

 板倉も井上も、唖然として松平の説明を聞いていた。2人とも口を“ぽかん”と開けている。

「すごいね、松ちゃん…。」

 板倉の口からようやく言葉が零れた。それは素直な意見だった。井上も舌を巻いている。

「こんだけバタバタしてる中で、よくそんなことが思いつくね。」

 板倉の言葉に、松平は頭を掻いた。少し照れているようだ。

「でもでも、そんな小手先だけの小細工で…。」

 井上の無遠慮な言葉に、松平はニヒルに笑った。

「小手先だけの小細工ですが、やらないよりはマシでしょう。さて、あとは誰を使節団として派遣するか…ですね。」

 その言葉に、板倉は再び唸った。そして、静かに口を開いた。

「まぁ…外国奉行衆に行ってもらうしかないだろうなぁ。」

「…外国奉行って、今は誰でしたっけ…?」

 井上が尋ねた。その言葉を受けて、首を捻りつつ3人とも黙り込んでしまった。


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