1864年1月27日 シンガポール
1864年1月27日 シンガポール
香港を1月19日に出港して、1月23日にサイゴン港へ到着。サイゴンは1月25日には出航し、1月26日にシンガポールに到着した。シンガポールは1日だけの滞在で、今まさに出航するところである。
「何か、香港を出たあたりから蒸し暑くなってきましたね。」
理髪師の青木が言った。16歳の三宅復一も大きく頷いている。
「そうですね。温帯っていうところに入ったって、西さんが言ってましたよ。」
“それもプチャーチンに聞いたのか?”と、青木は喉元まで言葉が出かかったが、三宅に八つ当たりしても可哀そうなので必死に堪えた。
「それにしても、日本じゃ今の時期はまだ冬の気候だもんね…不思議だよなぁ。そういえば、冬物の衣装しか持ってこなかったな…。」
青木が部屋の中に高々と積まれている荷物を見つめながら呟いた。三宅も“そうそう”と首を縦に振って同意してくれた。
「地下の倉庫に入れた荷物の中には夏物も入ってるんですけどね。いつまでフランスに滞在することになるか分からないから、夏の衣類も入れておいたはずだから…。」
初めての海外旅行のため、使節団のメンバーは往々にして荷物が多い。だから全ての荷物を客室に持ち込んでしまうと、寝るスペースがなくなってしまう。そのため、大半の荷物は船底にある倉庫に入れておき、頻繁に出し入れする荷物だけを客室に入れている。
「でも、さすがに暑いよね。今朝なんか寝汗掻いてたし。」
青木が首筋に掌を当てて“ぺたぺた”と叩いた。
「こういう時、女性はいいですよね~。小袖だったら涼しいじゃないですか。ゆったりしているから風が通って涼しいですもんね~。」
三宅が言った。確かに、と青木も頷いた。だが青木自身、小袖を着たことがないので実際のところ涼しいかどうかは分からなかった。あくまでもイメージである。
“三宅君は小袖を着たことがあるのか…”と聞こうかどうか迷ったが、プライベートな趣味に深入りすることは敢えて避けた。人それぞれ趣味というものはある。それは尊重されるべきだ…と、青木は勝手にそう判断した。
「とりあえず、船長さんに言って倉庫を開けてもらおうか?」
2人の意見が一致したところで、青木と三宅は船長室へと向かった。
倉庫の中には荷物が山のように積まれていた。青木と三宅は、そのうず高く積まれた荷物の山を呆然と見つめた。
「こ…この中から自分の荷物を探すの…?」
「いやぁぁ…大変だね、こりゃぁ。」
2人とも壊れたブリキの玩具のような、ぎこちない動きをしている。だが、黙って荷物の山を見つめていても何も解決しない。青木は腕まくりをし、三宅は額に鉢巻をして、2人は早速荷物を探すために、大きな山に挑んでゆく。
それから1時間後…。
「あ、あった~!!」
三宅が大きな声で叫んだ。青木はクタクタになりながらも、三宅の方に顔を向けた。
「えっ!あったの!?」
「はい!青木さんの荷物もありましたよ!!」
「マジでか!!」
青木は荷物の中に倒れ込んだ。そして高々と拳を掲げた。やっとこの苦痛な作業から解放される。そう思った瞬間に全身から力が抜けた。荷物の山が青木の目に逆さまに映る。その時に、ひとつの荷物が目に入った。
今日の夕食は、全員揃っての食事となった。アルベートル号で出される食事も非常に美味しかった。モンジュ号での食事は何だったのかと思うほど、全然違うものだった。それは、使節団一行が長旅によってフランス料理に慣れたということもあるとは思うが、そもそも料理の質が違うように一同には感じられてならなかった。
「では、手を合わせて…いただきます!」
“いただきます”という大合唱が響いた後、使節団のメンバー全員による食事が始まった。そして、皆が食事を始めようとしたときだった。
「あ~みなさん。申し訳ない。ひとつご報告があります。」
池田が立ち上がって一同を見渡した。“こほん”と軽く咳払いをすると、池田が口を開いた。
「何と本日、青木君と三宅君の功労によって…私が日本から持ち込んだ酒樽が発見されましたっ!!」
“おお~!!”というどよめきが会場を包んだ。池田は終始“にこにこ”している。香港に着いた時からずっと探していた…まぁ途中失念していたという事実もあるのだが、その念願の日本酒が偶然にも2人の手によって発見されたのである。
「…と、いうことで。我々は2人に感謝し、盛大に晩酌をしようと思います!!」
湧き上がる歓声。飛び交うハイタッチ。ひとりひとりにグラスが渡されてゆく。それは御猪口ではなくワイン用のグラスではあったが、それで呑む日本酒もまた格別だった。胃全体に沁み渡る米の酒の味…。湧き上がる懐かしさとお酒の熱によって、皆の体が一気に火照ってゆく。
「みなさ~ん!今日は艦長の計らいで、我々にデザートを用意してくれましたよ~!!」
そう言いながら、通訳の塩田が一同の前に皿を置いて行く。皿の中には、少し黄色みがかった丸い物体が入っていた。
「しおたん、これな~に?」
田中が物珍しそうにそのデザートを見回している。池田も恐る恐る口に運んだ。
「…冷たっ!…お~甘い!!」
「何だこれは!!口の中で消えてなくなった…。」
河津も不思議そうな顔をして口を動かしている。塩田は皆の反応を見て、満足そうに頷いている。
「これはアイスクリームというものですよ。氷に卵を加えて、砂糖を足して作る西洋のデザートです。暑い日に好んで食されるんですよ。」
“お~!!”という歓声が場内で沸き上がった。おやつが大好きな日本人にとっては、このアイスクリームというものは摩訶不思議な、そしてとても美味しいお菓子だった。
日本酒も呑め、アイスクリームという未知なるデザートも食すことが出来、温帯地域を進む使節団一行にとっては、これ以上ない癒しの1日となった。