1864年1月13日 上海
1864年1月13日 上海
ようやくフランス郵船ヘータスツ号が上海に到着した。使節団一行は早速、荷物を郵船へと積み始めた。
「ねぇねぇ、見てよ!すごく広い客室があるよ~!!」
田中が目をキラキラさせて叫んでいる。
「あ、この部屋は何だろう?もしかして、従者室じゃない!?うわぁ~スゴイ!あ、こっちの扉は何かしら?」
手当たり次第に扉という扉を開けまくっている。まるで子どもだ。
戦闘用に造られた軍艦と違い、人を輸送するために造られた郵船は客室を有しており、清潔感溢れる空間が広がっている。“人をもてなすための船”なのだ。
「全然違うなぁ…。」
池田が呟いた。河津も客室に置かれているベッドに腰掛けながら言った。
「ベッドが3台も置いてありますよ、ひとつの部屋に。スゴい豪華ですね。」
「ああ…。馬小屋みたいなところに畳が敷いてあって、その上に直に寝てたあの日々は何だったんだろうな…。」
池田は思わず苦笑いした。河津も頷きながら、ふわふわのベッドを擦っている。
「そうですね。まぁ老体としてはこっちの方が、背中が痛くなくて助かりますよ。」
「はいは~い!どいてどいて!!」
2人の間を、荷物を担いだ田中が強引に通っていく。その後ろを“ぞろぞろ”と大量の荷物が通り過ぎていった。広い客間に次々と荷物が積まれていく。そして、あっという間に部屋の半分が荷物で占領された。
「…荷物多すぎるよね、俺たち…。」
池田が呟いた。その声に、田中が振り返った。
「だってさ~しょうがなくない?初めての海外旅行だよ??どれだけ荷物持ってったらいいかなんて分かんないんだから、そりゃ多くなるよ。」
「それはそうだが…これじゃ荷物の中に寝てるようなもんだな…。何かとてつもない圧迫感を感じるんだが…。」
池田は大きな溜め息をついた。そして“きょろきょろ”と辺りを見渡した。
「そう言えば、俺が日本から持ってきた酒樽が見当たらんが…?」
「酒樽ぅ~?」
田中も“ジロジロ”と周囲を見渡した。そして、すぐに首を傾げた。
「下の倉庫じゃないの?大きい荷物は倉庫に入れるって言ってたよ、しおたんが。」
「シオタン?…あぁ塩田君のことか?…ぁあ、まぁあるならいいんだ、あるなら…。」
日本酒など外国では絶対に手に入らない。あれを無くしたら何の楽しみもないと池田は嘆息した。
ヘータスツ号の中には遊戯室のようなものまであった。ビリヤード台やダーツなど、池田らが見たことがないものがズラリと並べてあった。
「おっ!」
池田が、ふとあるものに目を止めた。それは白と黒の格子模様の盤だった。
「これは…将棋盤に似てるな~。西洋の将棋なのかな??」
盤上には同じく黒と白の石のようなものが置いてある。その石は良く見ると、馬の形をしていたり、十字架のような形をしていたり…様々である。
「河津殿、一局どうです?」
池田の言葉に、河津が振り返った。
「それは…何ですか?」
「おそらく、西洋の将棋だと思うんですよね~。とにかくやってみましょうよ。」
池田は黒い駒の方に座った。自然と河津は白の駒の方に座る。池田は徐に桝目の数を数えた。
「あれれ?盤の桝目が少ないなぁ。…あっ!駒の数も…将棋より少ない。」
河津も盤上を覗き込む。
「本当ですね。将棋は3列の布陣ですが…西洋は2列なんですね。」
「飛車角がないなぁ…。まあいいか。飛車角抜きの将棋もありますしね。」
そう言うと、池田は最前列に置いてある黒の駒を一歩前へ出した。
「見て下さいよ、池田殿!厨房からお菓子をもらってきましたよ!」
通訳の塩田が遊戯室にいる池田と河津に声を掛けた。“お菓子”という言葉に2人とも背筋を“ぴくっ”と反らせて敏感に反応し、素早く振り返った。
「えっ!!お菓子あるの!!?」
2人はすぐに立ち上がって塩田の方へと駆け寄った。塩田の手には見たことがないお菓子が一杯入った篭が抱えられている。
「“プチフール”と言うんですよ。ちょっと固いですけど甘くておいしいですよ~。」
塩田の説明も聞かずに、池田も河津もお菓子に手を伸ばしている。そして、同時に口に運んだ。すぐに顔が蕩けた。
「あま~い!!」
「うま~い!!!」
2人とも満足げに頷き合っている。1日2食の習慣である日本人にとって、間食は空腹を満たすためにも休息を取るためにも重要なものであった。“八つ時(午後2時から4時の間)”に食べるから“おやつ”なのである。
「モンジュ号では、お菓子なんてなかったですからね~。」
塩田が言った。池田も河津も無言で両手を使ってお菓子を貪っていたが、塩田の言葉に反応して池田が“モゴモゴ”と口を動かしながら言葉を発した。
「モンジュ号の料理人は腕が悪いんだよ、きっと。だからみんな胃もたれ起こしたんじゃないのかね。フランス料理もさぁ、調理の仕方次第で美味しくなるもんなんじゃないの、もしかしたらさ?だって、このお菓子はすっごく美味しいよ。」
「このヘータスツ号は郵船ですからね。もともと客を送迎するための船ですから、その辺のサービスは行き届いているのかもしれませんね。初めてフランス料理を食する人達向けの味付けなのかもしれません。そういう心配りはされていてもおかしくないですね。」
そう言った塩田の視線の先に、先ほどまで池田達が興じていた白黒の盤が見えた。
「あれ!?チェスをやってたんですか!?」
塩田の言葉に、河津が顔を上げた。口の周りにはチョコレートが付いている。
「ほぉ~。チェスと言うんですか、あれは?」
「はい。でもよく分かりましたね、ルール。」
そう言いながら、塩田は盤上の駒を眺めた。
塩田が、ふと視線を止めた。そこには何故か白のルークが逆さまに置いてある。
「あれ?このルーク、逆さまですよ??」
塩田が元に戻そうとすると、河津が慌てて止めた。
「ダメダメ!!それ、成金だから!」
河津の言葉に、塩田が首を傾げた。
「…ナリキン?」
「そう、香車が相手の陣地に入ったから、金将になるでしょ!?」
塩田の頭は、ますます混乱した。塩田は、逆に将棋のルールを知らない。塩田は助けを乞うような目で池田の方を見た。池田は、にこやかに微笑んだ。
「簡単に言うと、引っくり返すと駒の動きが増えるんだよ。出世するって言う方が分かりやすいかなぁ?それを将棋の世界では“成る”って言うんだよ。」
その言葉を聞いて、塩田は手を“ぽん”と叩いた。
「あ~!プロモーションのことですか。なるほど~。でも、プロモーションはポーンしか出来ませんよ。ルークは対象外ですから。それにその場所じゃまだプロモーション出来ませんし…。最後の列まで入らないと。」
塩田の言葉に、河津は露骨なほど眉間に皺を寄せた。
「はぁ?3列目に入れば成れるでしょ?それに、さっきから何、ポーンって…?」
「これのことですよ。」
そう言って塩田が指差した先には、先端が丸い駒があった。
「あ~。歩のことか~。」
「フ?」
塩田が首を傾げた。
「将棋では歩というんだよ。前に一歩ずつしか進めない。でもこの歩が相手の陣地に入ると金将になる。」
そう言って池田はポーンをひっくり返そうとしたが、先端が丸いため立つはずがなく、ゴロッと横に転がった。池田は、一瞬渋い表情をした。
「我々と歩は同じだ。一歩一歩前に進むしかないが、いつの日か大きく飛躍する時が来る。」
池田が、感慨深げにポーンを掌の中で弄びながら言葉を吐いた。
そして、池田は2人を振り返った。だが…。
「えっ!?ポーンは斜め前の駒しか獲れないの?何それ、変なの!?」
「変じゃないですよ。それより獲った駒をどうしてもう一度自分の駒として使えるんですか!?死んじゃった駒なのに…。」
河津と塩田は将棋とチェスのルールの違いを言い争っていて、池田の言葉など全く聞いていないようだった。