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スフィンクスと記念撮影した男たち  作者: 明智龍之介
第2章 上海
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1864年1月10日 上海

1864年1月10日 上海


 池田と河津、田中、塩田の前に、ひとりの日本人が正座させられている。その日本人は“じっ”と下を向いている。

 「ねぇねぇ、マズくない?この人、マズくない??」

 田中が連呼している。池田と河津は渋い表情のままで黙り込んでいる。

 今、一同の前に座らされている男は、薩摩藩の上野景範という人物である。日本人ではあるが、使節団のメンバーではない。たまたまこの上海にいたのである。実はアストルハウスで下宿していた池田達のところに、この上海にもうひとり別の日本人がいるらしいという情報が入ってきたのだ。それで方々を探し回ったところ、目の前にいる上野が自首をしてきたという流れである。

 「この上海にいた理由は何なのです?」

 塩田が聞いた。上野は恐る恐るといった表情で上目遣いに池田達を見回した。そして、ゆっくりと口を開いた。

 「昨年の冬に、船が難破しまして…。海を漂っているところを外国船に拾われて、そのまま上海まで辿り着きました。」

 「うっそだぁ~!!」

 田中が指差して叫んだ。

 「だってさぁ、君はどっからどうみても漁師とかじゃないよね!?それなのに船に乗ってて難破したってのはさぁ…。おかしくない?」

 「…密航、ですか?」

 池田が静かに尋ねた。上野は黙り込んで俯いてしまった。

 鎖国が解かれたと言っても外国船が寄港出来るようになっただけのことであり、日本人が自由に海外に出掛けることが出来るようになったわけではない。しかし、海外の文化はどんどん流入し、外国への憧れだけがどんどんと膨らんでいくというアンバランスな状態が、今の日本なのである。

 「…英学を、学びたかったのです。」

 上野が“ぼそり”と呟いた。英学を学ぶためには、現地であるイギリスに行くのが一番いい…そういう発想なのだろう。確かにそれはそうだ。何事も現地で勉強する方が身に着くだろう。しかし…。

 上野の言葉を受けて、河津が悲壮感たっぷりに眉根を寄せた。

 「そうは言っても…国禁を犯すというのは、賛成しかねるな。」

 「死罪だよ、死罪!密航が発覚したら死罪なんだかんね!!」

 田中が興奮して叫んでいる。“死罪”という言葉を聞いて、上野が顔面蒼白になった。そして、その場にいる全員が陰鬱な表情を浮かべた。

 国禁を犯したものは死罪に処せられる。そして、幕府の使節団として派遣されたメンバーの目の前に今、国禁を犯した者が座っているのだ。

 「しかし…死罪というのも、ねぇ…。」

 塩田が呟いた。自分達が幕府へ通告すれば上野は強制送還の末に死罪となる。どうにも塩田にはそれが気が引けた。塩田も通訳という仕事をしている以上、外国への憧れというものは強い。こうやって使節団のメンバーに選出されたためにフランス行きが叶ったが、通常であれば上野と同じように、密航しないかぎりは外国になど足を運べないのだ。それでも外国へ行きたい、外国へ行って勉学に励みたいという気持ちは、塩田にもよく分かった。他の面々も同じ想いだった。上野の気持ちは痛いほど理解出来たのだ。

 田中を除いて。

 「いやいやいやいや!罪を無視しようとしてんの、みんな!?ダメだよ、そんなの。だってルール はルールでしょ!?黙って見逃したら、僕らだって同罪だよ!?罪を犯すことになるんだよ!!?」

 「ダマらっしゃい!!」

 河津が怒鳴った。そして、静かに言葉を添えた。

 「そんなことはみんな分かっておるわ。分かっているからこそ、悩んでいるんだ。」


 すると、上野が勢いよく立ち上がった。

 「お願いします!!私を…私を、フランスへ連れて行って下さいませんか!?」

 「えっ~!!」

 大声を上げて拒否反応を示したのは田中である。田中は何度も何度も首を横に振った。

 「ムリムリムリムリムリ!!何を考えてんの!?自分が言ってること分かってんの!!?っていうか今の状況でよくそんなこと言えるね!?全然理解してないじゃんか!!」

 「理解しています!」

 上野が真っ直ぐな目で一同を見渡す。そんな上野を蠅でも追い払うかのように田中が手を振った。

 「分かってないじゃん!!自分のことしか考えてないじゃん!!!君はフランスに行けていいかもしんないけどさぁ、僕らが罪を被るんだよ!?よくそんなこと平然と言えるね?バカじゃないの!!?」

 「私だって考えています!皆さんにご迷惑をお掛けするということも重々理解しています!!それでも…それでも私はフランスに行きたいのです。お願いします!!!」

 「その態度が分かってないって言ってんの!!結局、自分の欲求だけ満たしているだけでしょ!?いくら僕らのことを考えてるって口先だけで言ってたって、それが形に表れなきゃ意味ないんだかんねっ!!」

 田中がヒステリックに叫んだ。田中の肩を塩田が軽く叩く。

 「田中さん、落ち着いて。」

 だが、田中は塩田の手を振り払った。肩で息をしながら塩田を睨み付けている。

 「落ち着いてなんかいられないでしょ!?幕府の使節団である僕らが、密航者を連れて行くわけにはいかないでしょ~よ!?」

 田中の言葉を、池田も河津も黙って聞いていた。上野は、いつの間にかまた下を向いている。無理もない。密航者として強制送還の上で死罪となるかどうかの瀬戸際なのだ。弾劾裁判に処せられているのと同じことなのだ。上野は消え入りそうなくらい自分の背中を丸めて、小さく座っている。


 「上野君。」

 池田が優しく上野に語りかけた。上野が“はっ”として顔を上げた。

 「申し訳ないが、君をフランスへ連れて行くことは出来ない。我らは幕府の正式な使節団だ。幕府より選出された者以外の人間を連れて行くわけにはいかない。」

 池田の言葉に、上野は“ガックリ”と項垂れた。

 「当たり前だよ!」

 田中が言った。その田中を、池田が目で制した。池田の目力に、田中は口を噤んだ。

 上野は死を覚悟した。このまま通告されれば、上野の命はない。死罪だ。

 池田は、大きく息を吸った。


 「上野君は、漂流したのですよね?」


 池田の言葉に、その場にいた全員が“きょとん”とした表情を浮かべた。当人である上野も同じである。

 池田は続ける。

 「上野君は昨冬、漁に出かけたところ船が難破し、外国船に拾われて上海に来た。早く帰国したかったものの何の伝手もなく、資金もなく、仕方がないからこの上海で日々を過ごしていた…こういう具合なのですよね?」

 「ちょ…ちょっと!!」

 池田の説明に田中が食ってかかった。

 「この罪人を見過ごす気なんすか!?密航者ですよ、密航者!!幕府の使節団である僕らが、罪人を見逃すんですかぁ!?」

 「我らの仕事はフランス及びイギリスに対する横浜港鎖港の談判と、賠償金の交渉だけだ。我らが上野君を尋問した結果、彼は漁師であり漂流者であると自白した。それ以上のことは確かめられなかった。そういうことだ。」

 田中がまだ何か言おうとしたが、池田が手で制した。

 「我々に、彼を裁く権利はない。」

 池田の言葉に、上野は大粒の涙を流した。次から次へと涙が溢れ出てくる。

 「…ぁりがとぅござぃますぅ…。」

 上野は、その場に崩れ落ちて慟哭した。


 「寛大な処置じゃないか。」

 上野が開放された後、定役の横山敬一が池田に話しかけた。

 「あんたは攘夷派だったんじゃないか?それなのに、開国派の人間に随分と寛大な処置をしたもんだな。」

 横山の言葉に、池田は無表情のまま答えた。

 「…俺の処置は不当だと、幕府へ通告するか?」

 横山は“ふっ”と鼻で笑うと、ゆっくりと首を横に振った。

 「そんなこたぁしねぇよ。だが、自分の理念に反する判断をしたんじゃねぇか…と聞いているだけ さ。」

 池田は横山から視線を外し、窓から見える景色へと視線を移した。この窓からは海を一面に見渡せる。少し澱んだ海だが、心地よい潮風がこのアストルハウスへと静かに吹いてくる。

 「彼は、俺らと同じだと思っただけさ。」

 池田が横山の方を向かずに言った。横山が首を傾げる。

 「上野君は英学を学びたいという目標に向かって日本を飛び出した。我々も幕府の命とはいえ横浜港を鎖港し、賠償金の交渉をするという目標をもって日本を出てきた。攘夷派だの開国派だのという違いはあるかもしれないが、外国に何かの目標を立てて飛び出してきた日本人というところは同じだ。」

 「…何が言いたい?」

 横山が少し苛立たしげに呟いた。

 池田は逡巡しながら、言葉を繋いだ。

 「不公平だな…と思っただけさ。」

 「不公平?」

 池田が頷く。

 「我らは日本を出られるが、彼らは日本を出られない…。それは紙一重の差だ。少し時代が違えば出られたかもしれんし、我らと一緒に外国へ渡ることも出来たかもしれん。更に言えば、日本国にとって将来必要となる人材は我々ではなく、国禁を犯してでも何かを学びたいという情熱を持った彼のような熱い男なのかもしれないじゃないか…。そんな男を死なせるのは…惜しい。」

 池田の言葉に、横山は鼻で笑った。

 「変なことを言うんだな。紙一重の差でも何でもない。幕府と薩摩藩の差さ。幕府に命じられた俺たちは国を出られる。薩摩藩であるあの男は国を出られない。ただそれだけのことじゃないか。」

横山の言葉に、池田は首を捻った。しかし、少し諦めたかのように静かに笑みを浮かべて横山の方を見遣った。

 「そうかもしれんが…同じ日本人だ。想いは汲み取ってやりたいじゃないか。」

そう言うと、池田は踵を返して部屋を出て行こうとした。そして、途中で立ち止まった。振り返ることもなく、池田は言葉を発した。

 「惜しい…。ただ、惜しいと思った。それだけだ。」

 池田の後姿を見つめながら、横山は“変なヤツ”と吐き捨てた。


 この上野景範という男は明治維新後に得意の英語力を生かし、在米・在英・在墺全権公使を歴任することになるのだが、それはまた別の話しである。


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