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スフィンクスと記念撮影した男たち  作者: 明智龍之介
第2章 上海
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1864年1月7日 上海

1864年1月7日 上海


 池田と河津は、アストルハウスでのんびりと時を待っていた。フランスの郵船ヘータスツ号が到着するのは13日の予定である。それまではここで待機することになる。

久しぶりに訪れた穏やかな日々…。波の揺れもない、胃から込み上げてくる不快感もない。日本にいる時と同じ生活を、しばしの間ではあるが送ることが出来ている。それは、あの過酷な船旅をしてきた池田達にとってみればこの上ない“ご褒美”だった。

 「池田殿は、趣味って何かありますか?」

 テーブルの上に置かれた烏龍茶を呑みながら、河津が尋ねた。コミュニケーションを取ることは仕事の上で非常に重要なことである。相手のことを理解することから何事も始まる。これからフランスまでの長い道のりを共にする“仲間”なのであるから、お互いのことを理解しようという河津の素晴らしい試みだった。

 池田は腕を組みながら思案し、そして口を開いた。

 「う~ん…。将棋とか囲碁とかですかね~。」

 「ほぉ~。それはまた、武士らしい。」

 河津が目を細めて頷いている。将棋も囲碁も、戦場での陣取り合戦を盤上に展開させた遊びである。戦国武将達は合戦の無い時でも、将棋や囲碁を趣味とすることにより先の先を読む力というものを養っていた。それが江戸時代になると、合戦というもの自体が無くなってしまったため、通常の娯楽として嗜まれるようになった。

 「河津殿は?」

 今度は池田が尋ねた。フランス軍艦の中では船酔いのために、こういったのんびりした会話をする余裕すらなかった。それを思うと、陸地での生活というものが如何に安寧であり、あのフランス軍艦での生活が如何に劣悪であったかということがよく分かる。

 「私は…詩吟を少々。」

 池田が驚いたように目を丸くした。

 「詩吟!?それはまた風流な…。」

 池田の言葉に、河津が頭を掻いた。

 「いやいや、下手の横好きというもんですよ。」

 「へ~。一節聞いてみたいですね~。」

 「ここで?」

 河津の問いに、池田が力強く2回頷く。

 「ぜひ!」

 河津は若干照れながらも、まんざらでもない様子で少し咳払いをした。“あ~、あ~”と発声練習をしている。

 「では…吟じます。」

 河津は立ち上がって深々と御辞儀をした。池田が拍手をする。

 「鞭~声~粛~々~。」

 河津が朗々とした声で吟じ始めた。『甲陽軍鑑』の中にある“川中島”の有名な一節である。河津の声は大きく明瞭で、遠くまで通る綺麗な声だった。池田としては正直な話しをすると詩吟というものを良く知らないし、あまり興味もなかったが、一生懸命に目の前で吟じている河津を見ると、何故か心の中が温かくなり自然と顔が綻んだ。

 その時、突然扉が開いた。

 「快出去!! 没有钱给乞丐的钱!!!」

 大きな怒鳴り声に驚いて扉の方を見ると、箒を振り上げて鬼のような形相で立っているオバちゃんがいる。2人は呆然とそのオバちゃんを見つめた。

 「…あれ?李さんじゃない??」

 河津が言った。そこに立っているのは、このアストルハウスの管理人の李さんである。

 李氏は“きょとん”とした顔をしている。池田と河津の顔を交互に見て、カタコトの日本語で尋ねた。

 「コジキ…ハ?」

 思わず“えっ”と叫んで、池田と河津は顔を見合わせた。

 「コジキ…?乞食のこと?物乞い??」

 池田の問い掛けに、李さんはしきりに頷く。

 「コジキ ノ ウタ キコエタ。」

 もう一度、池田と河津は顔を見合わせた。今、李氏は“乞食の唄”と言ったのだろうか…。意味がよく理解出来ない2人に対して、李氏が身振り手振りを交えて一生懸命に説明してくれた。

 「コジキ オカネ ホシイ トキ ウタ ウタウ。」

 李氏の言葉に、池田は思わず吹き出した。

 どうやら、河津の詩吟が乞食の物乞いをする時に歌う唄に聞こえたらしい。乞食を追い払うために、李氏は箒を振り上げて怒鳴り込んできたという始末なのだろう。

 河津は、居たたまれずに顔を真っ赤にして俯いた。


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